NHKドキュメンタリー 「データに溺れて」
現在では生活に欠かせなくなったネットとIT機器。
しかし、そこから得られるデータに生活を圧迫され、多くの時間を押し寄せるデータの処理に奪われている人たちが増えている、ということを伝えるドキュメンタリーです。
旅行に関する話題を見ながら思い出していたのはこの記事です。
コミュ症で旅行が楽しめないのも困るというか、かわいそうかも知れませんが、ほとんどの人は旅先でスマホやタブレット、デジカメで写真を撮りまくり、それをブログやSNSにアップして満足し、そんな自分に疑いを持っていませんが、本当にそれは幸せなのでしょうか?
アナログのフィルムカメラの時代は、休暇中に撮る写真はせいぜい数十枚でした。
しかし、デジタル時代の今は数百枚。
写真の保存フォルダの中には数千枚、数万枚の画像ファイルがあり、過去を振り返ろうとしても、目的の写真が見つからないなどということが起きています。
デジタルオーガナイザーという、データ整理術を教える人たちが存在するようです。
つまり、データ世界の「こんまり」みたいな人が必要な世の中になっているのです。
2005年のベネディクト16世がローマ法王に就任した時にはほとんどの人はそれをただ眺めているだけだったが、2013年のフランシスコの時には多くの人がスマホやタブレットなどを彼に向けてかざし、写真や動画を撮っていたと言います。
劇的に人々の生活スタイルは変化しました。
旅行という特別な場所でなくとも、多くの人は日常で写真や動画を撮影し、ブログやSNSにアップします。
料理や自分を頻繁に撮るのです。
ドクター中松のように自分の毎日の食事をデータとして蓄積、整理したことが評価されて、イグ・ノーベル賞をとるようなこともあるかも知れませんが、ほとんどの人にとってそのような毎日何枚も写真をとることはほとんど意味を持たないのではないでしょうか?
12万件以上のメールがメールボックスに溜まり、そのうち8万件あまりが未読のままになっている女性も登場します。
データが多すぎて処理をする優先順位をつけることすらできずに放置されているのです。
「放水ホースから直接水を飲むようなものだ」と指摘する人もいました。
「データ過負荷(Data Overload)」の状態なのです。
膨大なデータに溺れて正常な生活が奪われていると自覚している人もいれば、今、取得できるデータでは飽きたらず、可能な限りのデータを集めようとしている人たちもいます。
特に自分の生体データです。
心泊数、血圧、血糖値、消費カロリー、生理周期に、その時々の感情に至るまで、ありとあらゆるデータを収集し、自らの健康や幸福度の増進に役立てようというのです。
その中の一人は、データを収集するだけでなく、tDCSを用いて脳に電流を流して集中力を向上させるということもしていました。
実はそれは私も少し興味があります。
デジタル機器を使って、人体データを収集、蓄積、分析してライフハックしている人たちは「QS(Quantified Self)」で交流しているそうです。
Quantified Self | Self Knowledge Through NumbersQuantified Self | Self Knowledge Through Numbers
Quantified Self Tokyo - self knowledge through numbers
こういった人たちが蓄積した技術は将来多くの人が使うこととができるようになり、または義務化され、QSの人たちと変わらない生活をするようになるかも知れないと識者は言います。
こうしたデータもGoogleのようなIT企業に収集される可能性があって、不安ですし、データ機器に生活を縛られているようでちょっと息苦しいかも知れません。
そんな未来が待っているかも知れません。
健康増進には役立つかも知れませんけれど、それがストレスになったり、生活習慣を壊すようでは困りますからね。
実際にデジタル機器のある生活にのめり込み、家族との交流や現実世界での生活を疎かにした人の例も紹介されます。
まさにデジタル依存症です。
「デジタル安息日」を自主的に設けて回復した人もいますが、もっと本格的なデジタル・デトックスをするサマーキャンプに参加する人もいるそうです。
そこではデジタル機器はなく、ダンスやヨガなどを通じて同じキャンプに参加した人たちと交流をします。
それでも完全に今までの生活を変えるのは難しいので、メールの代わりにアナログのポストに手紙を投函したり、ワープロソフトの代わりにタイプライターを使ったり、Google検索の代わりに人力検索を利用したりもできるそうです。
おもしろい試みだなと思いました。
こういうものを通じて参加者はデジタル機器やデータとの適切なつきあいかたやほどよい距離感を学んでいきます。
日常生活でも旅行先でもスマホやタブレットの画面を覗き込み、SNSで他の人の行動をチェックしたり、自分の記事のアップに時間の多くを費やしていたら、その瞬間その場所にいることを感じ、楽しむことができているとは言えないかも知れない。
分析されたデータばかりを信じるのではなく、ときには自分の心の声を聞いてみる。
デジタル機器を愛せよ、しかし、無条件には愛するな、という識者の格言で番組は締めくくられます。
大旨、同意します。
しかし、個人的な経験からすると、自分からアウトプットする気力がないと、デジタル機器は扱えず、テレビを垂れ流しにして受動的に受け取るだけになるので、デジタル機器自体を安易に悪視したくはないな、と思います。
気力と集中力があるだけに、それをすり減らすな、時間を無駄にするな、ということなのでしょうね。
20代以降でもこの番組で紹介されているような状況になるのですから、デジタルネイティブ世代ではもっと深刻なことになるのかも知れませんね。
デジタルの分野に関しては、スーパー・サイズ・ミーのような実験をするまでもなく、多くの人が提供されている商品、サービスにどっぷりつかり、病気寸前になっているようにも感じました。
つまり、今の世の中はデジタル機器に限らず、依存症を誘発するようなビジネスモデルで動いているのです。
スーパー・サイズ・ミーでは、ファストフードを食べるか食べないかはそれぞれの人が自己決定できるものであるということで、タバコと違って訴えることができなくなったということが紹介されていました。
しかし、ファストフードやデジタルデータの取捨選択を個人の力でコントロールできるのは、今のうちだけのような気がします。
データに溺れるというのとは少し違いますが、個人情報を保護するために自分で管理できるデータの範囲を自分で決定している人たちが以前、ネットで記事なっていました。
その人はクレジットカードを使った支払いが一般的な欧米で、クレジットカードを作らないことを選択して生きてきたようです。
しかし、これから日本も含めてクレジットカードや電子マネーを作らずに生きていくことができるのかどうか、甚だ疑問です。
日本ではそれらとマイナンバーを関連付けしようともしていますよね。
そのマイナンバーについては番号をみだりに第三者に教えないでくださいと言いながら、雇用の流動化で非正規雇用の人たちは仕事が変わるたびに通知しなければいけません。
非正規雇用の人たちほどマイナンバーが流出するリスクが高まるということですが、それを避けるためにデータを管理する方法を個人は持っていません。
マイナンバーを教えないようにすることはできませんからね。
これからマイナンバーの流出事件が多発するでしょうね。
自己責任論が高まっているのとは裏腹に、自分で決定し管理できることはどんどん少なくなっているような気がします。
データの管理、各種申請、申告といった手続きの確実な実行などなど、生きるのに必要なことがどんどん増えていきますね。
ヨーロッパで難民申請が受理された人が、この高度な社会の仕組みの中での生活に耐えられず、元の国に戻ってしまうということがニュースになったこともありますが、分かるような気がします。
日本に生まれて日本に育っていても今の高度な社会についていけていない自分がいます。