偉人たちの健康診断「織田信長の隠れた病」 織田信長が健康だったのか?
偉人たちの健康診断「織田信長の隠れた病」~by木道 | エンタメ | SPECIAL COLUMN | NHK BSオンライン
偉人たちの健康診断「織田信長の隠れた病」を見た。
- 病気、怪我に関する記述がほとんどない信長は健康だった?
- 太ももを鍛える強度の強い有酸素運動で生活習慣病を防ぐ
- 現代人は重心が後ろにある人が多い
- 信長の身長を推測する
- 信長の性格から分かる健康上のリスク
- 日本初のハーブ園
- 最後に
病気、怪我に関する記述がほとんどない信長は健康だった?
織田信長の史料には健康に関する記述がほとんど無いという。
ということは目立った病気が無いということかも知れない。
身体や健康を窺い知ることが難しい信長の史料を探り、健康に関係しそうなエピソードを集めて推測したのが今回の番組内容。
多くの武将は病気や怪我を幾らかしているようで、その都度、記録が残っているそうだ。
上杉謙信は49歳で脳卒中(当時は中風と言ったらしい)になっているという。
上杉謙信とセットで語られることも多いライバル、武田信玄は47歳で隔(消化器疾患)を患ったという記録がある。
織田信長の家来だった時期もあり、後に天下を治めた徳川家康は健康に気を使っていたと言われているが、彼も42歳のときに背中に腫瘍が出来た。
秀吉にも病気をした記述はあるという。
戦乱の世で活躍したツワモノの武将たちも、40歳を超えたあたりには現代人と同じように病を患っていたのだ。
活躍したくらいだから健康とも言えるが、それだけ肉体を酷使したということでもあるかも知れない。
人間50年と言われた時代でもあるし、死に直結する病になってもおかしくなかっただろう。
織田信長には信長公記という信長に関する史料があり、合戦や政治、趣味や服装に至るまでかなり詳細な記述があるそうだ。
37歳と43歳に戦で鉄砲によるかすり傷を負ったという記述はあるものの、それ以外の目立った病気や怪我の記述は無いという。
自分を天皇家より上の地位にしようと画策した様子もあり、自らを神格化しようとした信長だから、病気や怪我の記述を隠させていた可能性はある。
しかし、素直に読むと信長は健康だったのは無いか?と思える。
では、何が彼を健康にしたのか?
太ももを鍛える強度の強い有酸素運動で生活習慣病を防ぐ
岐阜という地名は、織田信長がその地を手中に収めた際に「井之口」から改名させたことから始まるのだと言われている。
1567年、信長は岐阜城に拠点を移したという。
34歳のことだ。
山城は合戦のときに襲われにくい利点があって作られているもので、普段からここを拠点とするのは珍しいことだったそうだ。
城下町からも遠かったことだろう。
しかし、信長はこの岐阜城を住居とし、金華山のふもとにも客を招いたときに使ったと思われる大規模な建物を作っていたという。
日本に布教に来た宣教師ルイス・フロイスが記述した「日本史」という史料によると、信長に何かしらの報告があるものは、彼がふもとの舘にやってくるのを待っていたという。
何かあると、織田信長は山とふもとを頻繁に往復していたのである。
この時、使っていたと思われる山道は百曲がりと呼ばれ、足場が悪く歩くのも大変で、馬では行き来できなかったと思われるとのこと。
そこを信長は登ったり降りたりしていたのだ。
現代人がここを上ると行きは50分、帰りは40分ほどだという。
信長の時代は足腰も心肺機能も高い人は多かったろうから、もう少し早いかも知れない。
それでも、かなり高い強度で、十分な時間の有酸素運動になるという。
動脈硬化症、糖尿病、高血圧症、脂質異常症(高脂血症)の総称である生活習慣病。
生活習慣病の予防する習慣としては、運動、食生活改善、節酒、禁煙、適切な運動が挙げられるという。
運動でもとりわけ有酸素運動が推奨されているそうだ。
生活習慣病予防に有効な有酸素運動を、信長は実践していたのである。
信長は岐阜城に9年間住んでおり、この間、絶えず山の登り降りを繰り返していたことになる。
次に拠点とした近江の国(現在の滋賀県)の安土城も安土山という山に建てられた。
山にある上、城自体が地下1階、地上6階で高さにして30mもあったそうだ。
1579年、信長46歳のとき、ここに移り住んだ。
信長が初めてという天主(天守閣)は眺めは良かっただろうが、行き来は大変だったろう。
寝所、家来と会う広間、天守閣とを行き来するには階段を上り下りしなくてはいけない。
地上6階というが、高さは現在の10階建のビルに相当するそうだから、階段の距離もそのくらいあったということだ。
通常のウォーキングでは運動強度が足りず、最近は踏み台昇降運動という階段ような段差を上り下りする運動が効果的だとして、高齢者のリハビリに取り入れられているという。
筋肉の動きを計る筋電計では、階段の上り下りは通常のウォーキングの3倍の運動効果が得られるという結果が出たとのこと。
信長はそれを日常的に行っていたのだ。
本能寺の変で49歳で死んでいるので、信長は死ぬまでこの生活を続けていたことになる。
この他にも、酒を飲まずに食事も摂生していたという。
浅井長政・浅井久政・朝倉義景の頭蓋骨の一部を杯にして酒を飲んだとされているが、普段は飲まなかったのだ…。
その伝説は嘘だという話もあるようだが。
髑髏杯は古今東西で作られ利用されてきたようだ。
酒もほとんど飲まず、喫煙した記録もない。
かなり健康的な生活をしていたようだ。
岐阜城の上り下りを1年続けると18万kcal、体脂肪量で10kgに相当するそうだ。
ちなみに1日に換算すると訳493kcalになる。
調べてみたところ
体重(kg) X 距離(km) = 消費カロリー(kcal)
になるらしく、体重50kgの人が10km走ると500kcal消費できるという。
走るのと歩くのとが同じ、また急斜面を上るのと平地を歩くので本当に同じなのか?と思うところもあるが、おおむねその計算で良いようだ。
信長は1日にジョギング10km分の運動をしていたのである。
相当、健康的だ。
消費カロリー以外にも太ももの筋肉を鍛えるのが重要だそうで、急斜面や階段を上り下りすることで歳とともに衰えていく筋肉量を保ったり、増強させたりすることが期待できるそうだ。
筋肉量は個人差があって、太ももの筋肉が落ちて要介護ゾーンに入る人は早い人で65歳あたり、健康で元気な人で90歳くらいと30歳もの開きがある。
太ももを鍛えるのは健康寿命を伸ばす上で重要なのだ。
ウォーキングは良いとされるが、通常の歩き方では駄目で少し強度を高める必要があるそうだ。
山道や階段の上り下りはかなり強度が高く、平地でも速歩きや大股で歩く、ももを上げて歩くと少し良いようだ。
アメリカの研究で65歳以上の人の歩くスピードと寿命の関係を調べた研究では、例えば70歳で歩くスピードが秒速1.1mだと寿命は85歳となるそうだ。
その論文はこれだと思われる。
Gait speed and survival in older adults. - PubMed - NCBI
表もここにある。
表を見ると、65歳で秒速1.5mで歩ければ、男性なら95歳、女性なら102歳あたりまで生きられそうだ。
歩く速度は平均だし、あくまで目安だろうが。
信長は水泳も得意で家康に教えるほどだったというから、心肺機能も相当高かった可能性がある。
現代人は重心が後ろにある人が多い
信長はただ歩いていたのではないからまた驚きだ。
信長は足の前半分の長さしかない草履「足半(あしなか)」を愛用しており、家臣にも褒美としてあげていたという。
サンダルでペッタンペッタン音がするのは、足を持ち上げたときにサンダルと足の間に隙間があくからだろう。
草履でもそれと同じだが、足半だとそれが起こらず楽に動けるそうである。
戦のときに地位の高い武将クラスは馬に乗っているので、この足半を履くのは足軽だという。
信長は常に使っているとは言えないながらも、足半を腰につけていつも持ち歩いていたという。
現代では、足をつけたときに指が地面にしっかりつかない、「浮き指」である人が増えているという。
これだと歩いたり走ったりしたときに、指に重心がかからない、しっかりと地面を蹴ることができない。
ただ立っているだけでも重心が後ろに偏り、かかとに多くの体重がかかってしまう。
すると上にいくに従ってバランスを取るために前傾した姿勢になるという。
すると、腰や首に負担がかかり、腰痛、肩こり、頭痛の原因になる。
指を持って曲げてみて90度近くまで曲がる場合は浮き指の危険性が高いそうだ。
土踏まず付近の筋肉が衰えることで足の甲の横方向のアーチが潰れて浮き指になるとのこと。
足半を使うと、足の半分しか草履がないために自然と足の前に重心が乗るようになり、さらに鼻緒が普通の草履よりも前にあることで指が足半のへりにかかり、指に力が入るようになるという。
信長はこれを履いて山道を登り降りしていたのだろう。
浮き指にならない生活をすることで腰痛や肩こり、頭痛を遠ざけていたのだ。
信長以外にも西郷隆盛が兎狩りなどで足半を使っていたらしく、上野の銅像は足半を履いているらしい。
近年、問題になっていると時々、報道されていた記憶がある浮き指だが、この問題に詳しい教授によると女性80%、男性で60%は浮き指なのだという。
若い人だけの問題では無かったのだ。
しかし、現代人が普段歩くときに足半を使うのは難しい。
手に入らないし、歩くのはつらいし、恥ずかしいだろう。
足半を使わずに浮き指を改善する方法が紹介されていた。
椅子に座り、足の下にタオルを縦に敷いて、それを足の指を使ってたぐり寄せるのである。
こうして足の指を鍛えるのだ。
この訓練法は以前、外反母趾を予防する方法としてテレビで取り上げられていた記憶があるが、それによれば、すでに外反母趾になっている人はこれを行うと悪化する危険があると注意喚起されていた。
番組では特に言及されていなかったが、外反母趾の人はやめておいたほうが良いだろう。
信長の身長を推測する
さて、織田信長が生きていた時代、身長は記録されていることはまれだったという。
豊臣秀頼は六尺五寸、今で言う196cm。
藤堂高虎という人物は六尺二寸で187cmだった。
よほど特徴的で珍しい場合には記録があるようだ。
あまり重要だと考えていなかったのだろう。
それでも身長をある程度、正確に推測することができるそうだ。
伊達政宗の場合、宮城県仙台市にある瑞鳳殿は正宗の墓でもあり、瑞鳳殿修復の際に遺骨が発掘され、身長が計測された。
159.4cmとされている。
室町時代の男性の平均身長157cmより少し高いくらいだ。
豊臣秀吉の場合には、遺骨はあったのだが明治時代の発掘の際に破損してしまったそうだ。
秀吉の場合には、彼が身につけていた甲冑から大きさが推測できるという。
銀伊予札白糸威胴丸具足という鎧は伊達政宗に与えたらしいが、秀吉の体に合わせて作られたという。
これから推測した身長は150から154cmだそうだ。
少し背が低い。
徳川家康は位牌から身長が分かるという。
愛知県岡崎市にある大樹寺には歴代将軍の位牌があり、これらは死後に身長を測ってその大きさで作られているという。
等身大なのである。
ここから割り出された身長は159cmだという。
2代将軍徳川秀忠は160cm、3代将軍徳川家光は157cmだそう。
しかし、織田信長はこれらのどれも使えない。
遺体は本能寺の変で見つからなかった。
安土城も焼け落ちたためか、信長が身につけていた甲冑も残っていないという。
ルイス・フロイスは身長について言及しているが「中くらい」だという。
日本人の中では中くらいなのか、ポルトガル人でいう中くらいなのか分からない。
ある医師が面白い方法で織田信長の身長を推測した。
肖像画を使ったのである。
人体の上腕骨の長さと身長には相関関係があるという。
肩の付け根から肘までの長さを測れば、身長をかなり正確に推測できるのである。
順天堂大学の医学博士、藤井明の1960年の論文「四肢長骨の長さと身長との関係に就いて」で発表された計測法で、考古学で広く利用されているらしい。
右か左かで式の数値が微妙に違うようだ。
上のサイトではmm(ミリメートル)で計算しているようだ。
番組ではcm(センチメートル)で計算しており、右腕で計算したため
右上腕骨の長さ x 2.79 + 73.242 = 身長
となっている。
縄文人くらいだと腕が現代人よりも長めだったり、短めだったりしそうだが、室町時代や安土桃山時代くらいならそれほど違わないかも知れない。
絵から肩から肘までの長さを計るにあたっては、縮尺が分かる目安が必要だ。
推測した医師は着物の襟の幅を用いたようである。
当時の着物(小袖)の襟幅は二寸(6cm)か五寸(15cm)の2パターンに決まっており、それを使って比率を割り出し、肩から肘までの長さを決定したのだ。
その長さを数式に当てはめると身長が推定できるというわけだ。
15cmで計算すると3mを超えることになり現実的ではないので、6cmを採用された。
それを使うと肖像画の右腕の長さは34.5cmとなり
34.5 x 2.79 + 73.242 = 169.497 cm
となる。
しかし、当時の日本の絵は写実的ではない。
顔もさほど似てないだろうし、幅が決まっているという襟も上は細く、下は広く描かれている。
あまり信用できないと思う。
この計算法自体はかなり精度が高いようで、スタジオでカンニング竹山さんが肩から肘までの長さを測って割り出した結果はかなり近いのだという。
芸能人のプロフィールに書いていた身長が嘘だとバレてしまった。
体重についてもほとんどの人物はその記録が無いという。
『養生訓』の貝原益軒が体重を測ってみた最初ではないかと言われているようだ。
ルイス・フロイスの『日本史』によれば、「華奢な体躯」だそうだが、水泳や弓などが得意だったそうだから、欧米人のような見た目に派手な筋肉質では内にしろ、引き締まった細マッチョだったのだろう。
信長の性格から分かる健康上のリスク
ここまでおおむね健康であると思われる結果しか紹介されていない織田信長だが、実は病気のリスクがあるという。
それは非常に怒りやすいということだ。
信長の怒りっぽさをうかがい知ることができるエピソードが幾つか紹介されていた。
信長が通る道に岩を落としたとして家来を処刑。
必要なときにその場にいなかったとして女中をやはり処刑。
本能寺の変の前に、信長が意見、進言した明智光秀を足蹴にしたというエピソードは有名である。
織田信長のように攻撃的で短気、激昂しやすい性格の人をタイプAとして分類し、そうでない人たち(タイプB)と比較した調査があるそうだ。
それによると心疾患(心筋梗塞や狭心症)のリスクが普通の人の2倍ほども高いという。
脳卒中のリスクも高まるらしい。
怒ると血圧が高くなることは知られているが、血小板が変化することもその要因としてあると言われている。
怒るとアドレナリンが出るが、その影響で普段は丸い形をしている血小板がトゲのような突起を出した形になり、お互いにくっつきあう。
するとそれが血管の中で血液の流れを妨げ、血圧を上げたり、血管を傷つけてしまうという。
もしかすると本能寺の変が無いか、そこで生き延びられたとしても、心筋梗塞や脳卒中でさほど変わらない年齢で死んでいたかも知れない。
調べてみると、脳卒中の後遺症で短気で怒りっぽい性格になる人もいるという。
もしかしたら信長は幼い頃に脳に何かしらの病気があったのかも知れない。
おかしな行動をして「大うつけ」と呼ばれていたからありえない話ではない。
怒りは何かの行動を起こす原動力ともなるから、いちがいに悪いとは言えないが自分の健康にも人間関係や組織運営の点でもマイナスになることが多い。
だからアンガーマネジメントなどを学んで怒りを管理することが必要だろう。
日本初のハーブ園
信長は前述のエピソード以外にも健康に気を使っていたようだ。
伊吹山に織田信長ゆかりの薬草園がありました | hotel Lakeland HIKONE Blog
岐阜県の伊吹山にヨーロッパ原産でここにしか生えていないキバナノレンリンソウ、イブキノエンドウ、イブキカモジクサという植物がある。
これは信長がポルトガルの宣教師から薬草となるハーブの話を聞いて作らせた薬草園の名残りなのだという。
江戸時代に小石川養生所と薬草園があったのは有名だ。
多分、こちらは多くが漢方の生薬だろう。
とすると、信長の作ったものは日本で初めてのハーブ園だということになる。
楽市楽座など、画期的なことを始めたことでも知られる信長の医療の分野でも新しいことをしていたのだ。
最後に
信長は自らのエネルギーのおもむくままに突っ走っていた印象があったが、意外に健康に気を使っていたようだ。
しかし、有名な短気で他人に厳しく、ワンマンなエピソードは記述が間違っていなければ事実だ。
自分が元気なのを良いことに他人にも同じだけのことを要求するブラック企業の経営者的な印象を持った。
昔の人の身長を推測する方法はとても興味深かった。
骨から身長を推測する方法は以前から色々あるらしいが、調べてみると予想通り人種や民族で違いがあり、各国で同じような研究をしている。
また似たようなものとして、象の前足の太さから象の表面積(簡単に言えば大きさ)を推測する方法がイグノーベル賞をとっていたのを思い出した。
健康以外にもこういうことを知ることができて面白かった。