テンプル騎士団がコロンブス以前にアメリカ大陸に来ていたという番組を見た
ヒストリーチャンネル『聖杯伝説の謎(HOLY GRAIL IN AMERICA)』
1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見したというのは歴史の授業でも習う有名な事柄だ。
しかし、それ以前にヨーロッパ人はアメリカ大陸に渡っていたことが明らかになっている。
その最初はバイキングだったと言われている(AC1000年頃)。
後の探検家はその時の地図や知識を利用していたというのである。
騎士によって作られたテンプル騎士団(修道会)は迫害を受け、一部がヴァイキングの知識を使ってアメリカに逃れたという説もある。
Kensington Runestone - Wikipedia
1898年の秋、ミネソタ州のケンジントンで、スウェーデン人移民のオロフ・オーマンが敷地のポプラの木を取り除こうとしていた。
木を倒すと、根が絡んだ石が出てきた。
その石には何かが彫られていた。
良くわからなかったが、オーマンはスウェーデン人だったため、それが古スウェーデン語のルーン文字に似ていることに気がついた。
その石の噂は広まり、さらにオーマンが専門家に文字の解読を依頼したこともあり、注目された。
オーマンが有名になるためのでっち上げだという人もいる。
しかし、近所の数人がなぎ倒された木とその根に絡んだ石を見ているという。
オーマンの家にルーン文字の本が有ったことはわかっているので、それを使って自分で石に文字を刻んだのではないか?と懐疑派は言う。
オーマンの子孫は、それらの本はオーマンが石が発見されたあとにその文字を調べるために手に入れたものだと主張している。
またスウェーデン人だとしても、刻まれている文章は素人ではとても作ることはできないともいう。
中世スカンジナビアにはその地方のルーン文字(方言のようなものか?)で刻まれた石碑はいくつもあり珍しくないそうだが、アメリカにそれがあるというのは普通では考えられない。
ミネソタの石(のちにケンジントン・ルーン・ストーンと呼ばれる)に刻まれた文字は書き写され、世界中のルーン文字学者やスカンジナビア語専門の言語学者に送られた。
ルーン文字はローマ字のような表音文字でもエジプトのヒエログリフのような象形文字とも異なり、解読するのはとても難しいと言われている。
ミネソタ大学のオラウス・ブレーダは初めて大まかな翻訳に成功した。
それによると、
ヴィンランドの西から発見の旅に出たスウェーデン人とノルウェー人が野営を張った。この石から北に一日のところで終日釣りをした。帰ってくると、仲間達が血まみれで息絶えていたのを発見した。悪から守り給え。海にいた仲間達に船を見張らせる。島から???日の旅。????年
というようなものだった。
この翻訳では日付はわからなかったが、その後、イリノイ州ノースウェスタン大学のゲルマン語教授ジョージ・カームが新たな翻訳を発表する。
旅に出たものの内訳は「スウェーデン出身のゴート人8人とノルウェー人22人」だという。
そして「島から14日の旅。1362年」だと判明した。
コロンブスがアメリカを発見した1492年より130年も前の話だということになる。
ルーン文字の専門家たちによって翻訳は若干修正された。
その時、偽のルーン文字や1362年にしては新しいルーン文字が使われていたことが分かったとされた。
信憑性は大いに損なわれた。
しかし、言語学とは違ったアプローチもあった。
地質学者のニュートン・ウィンチェルが1910年に行った研究だ。
ウィンチェルは鉱物からサンプルを抽出し、成分を特定して風化具合から年代を推定したのである。
彼は石は本物であると結論づけた。
だが、大半の学者達は納得しなかった。
仲間が何者かに襲われて死んでいたのに、襲ったものがまた戻ってくるかも知れなかったのにそこにとどまり、石に悠長に文字を刻み込んでいたなどということがあっただろうか?というのである。
1893年、アメリカ大陸発見400周年を記念したシカゴ万博が開かれた。
スカンジナビア半島出身の移民たちの多くはヴァイキングこそがアメリカ大陸を発見したと信じていた。
北欧系アメリカ人にとっては万博は屈辱的に写ったようだ。
ヴァイキングの船を模した船をわざわざ作らせて万博会場近く海に浮かべたものもいたという。
石が見つかったのはそんなころのことでちょっとタイミングが良すぎるというのも懐疑的な見方をされる原因となっている。
1960年には晴れてコロンブスよりも前にアメリカ大陸にヴァイキングが上陸していたことが認められた。
ランス・オ・メドー国定史跡|カナダ 文化遺産|世界遺産オンラインガイド
ニューファンドランド島ランス・オ・メドーでヴァイキングが住んでいたとされる住居が見つかるのである。
紀元1000年の遺跡である。
そのニューファンドランドこそが、ヴィンランドではないかと言われている。
ケンジントン・ルーン・ストーンはその後、2500ドルで実業家に買い取られた。
現在ではケンジントンの近くにあるアレクサンドリアのルーン・ストーン博物館に保管されている。
石は偽物であるということでほぼ結論付けられ、忘れ去られるかと思われていたが、そうはならなかった。
2000年、地質学者のスコット・ウォルターに博物館から石を分析するよう依頼があった。
ウォルターは文字が新しく見えることに気づいた。
ただ、文字の溝の底の部分は新しいのに側面は風化しているのが不自然だった。
実は発見者のオーマンが釘など尖ったもので文字をなぞって傷つけていたのである。
土を取り除き、見やすくしようとしたのだろう。
これで文字が新しいかどうかで真贋を見極めることはできなくなった。
ウォルターは発見時に巻き付いていたという木の根の跡にも注目した。
土壌の専門家の助言により、木の根によって石が酸性化し、跡がついたことがわかった。
石が1300年代のものである証拠を求めて、アメリカ入植者の墓地の墓石が調べられた。
墓石の風化具合を調べることで、ケンジントン・ルーン・ストーンがいつから風化を始めたのか推測することができるという。
1806年に建てられた墓石からサンプルをとって調べると墓石とルーンストーンに含まれる黒雲母が石の表面に出てくると200年後から風化が始まることがわかったのである。
ケンジントン・ルーン・ストーン表面の黒雲母はすでに無くなっており、そこから考えるとオーマンが石を見つけた1893年のさらに200年以上前には始まっていたことになるのだ。
オーマンに捏造は無理だということが証明された。
直近で考えると1600年代もありうるが、そのころはアメリカ先住民とフランス人商人くらいしかその地域にはいなかったと思われ、彼らがルーン文字の知識を持っていたとは考えにくい。
とすると石に刻まれた1392年を信じるしか無い。
ウォルターは結果をアメリカ国内の考古学会で報告した。
参加者はウォルターの地質学的見地からの結論については同意したがルーンストーンに書かれた文字の信憑性については取り合わなかった。
ウォルターはルーンストーンの信憑性を確かめるためのさらなる調査を決意する。
ケンジントン・ルーン・ストーンの謎を解く鍵はテンプル騎士団にあるかも知れない。
1099年、キリスト教徒(十字軍)がエルサレムの町を支配下に収めた。
その数年後、数人の騎士たちがフランス中西部エルサレムへ向かったという。
キリスト教徒が聖地であるエルサレムへ巡礼する際にイスラム教の国や地域を通るため、彼らの護衛をしたのである。
また騎士たちは信用状という仕組みを作り、巡礼者が多額の現金を持ち歩かなくても良いようにした。
騎士たちはエルサレム王から最も神聖とされる神殿の丘に建っていた古いユダヤ教寺院の一角を宿舎として与えられた。
一部の説では騎士たちは神殿の丘の下にあるソロモン王の遺跡の下の財宝を探すために地面を掘っていたという。
「契約の箱」を探していたと言われているが、聖杯こそその目的のものだという研究者もいる。
聖杯自体もそれが何を指すものなのかわかっていない。
キリストが最後の晩餐に用いた杯なのか?
聖なる知恵が書かれた巻物が収められた入れ物なのか?
キリストの血統に関わるものであるという説もある。
そこで見つけたものかは不明だが、騎士たちはエルサレムから価値のある何かを持ち帰ったという。
それは騎士たちの名声や影響力を高め、当時、作られたばかりのシトー修道会の興味をひくものだったという。
シトー修道会のリーダー格クレルヴォーの聖ベルナールが宗教的騎士団を作ることを提案する。
テンプル騎士団の原形である。
イスラム教国との聖戦が行われている最中、他のキリスト教組織などからも、そのような集団が必要だとして受け入れられた。
1128年、テンプル騎士団はローマ法によって正式な騎士修道会として認可された。
エルサレムで10年以上働いたものが中心メンバーとなった。
聖ベルナールはテンプル騎士団の発案者であったこともあり、教会からの厚い信任を得た。
影のローマ法王とも呼べるまでの影響力を勝ち取ったとも言われている。
その聖ベルナールの後ろ盾もあってテンプル騎士団は、中世の経済にも影響力を持つようになる。
騎士団は農業へも取り組み、家畜や毛織物などで資金を集める組織となった。
莫大な資金力を背景に金と物の流通を仕切るようになる。
ヨーロッパの大部分に展開する巨大な運送業者が誕生したようなものだろうか?
その175年後、テンプル騎士団とシトー修道会は協力し、中世産業に革命をもたらす。
騎士団はさらに大きな資金と何隻もの船を手に入れた。
フランス王フィリップ4世とテンプル騎士団は元々は良好な関係だったが、戦費のためにテンプル騎士団に借金をし、返済不能な債務を負った。
それが元で1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団の排除を画策する。
また同じ頃、騎士団を異端とする告発があり、カトリック教会も動き始めていた。
騎士団入会時にいかがわしい儀式が行われているという噂が立っていたのである。
性的な逸脱行為や偶像崇拝の罪で騎士団は告発された。
フィリップ4世はフランスの教会をローマ教会から切り離すことをちらつかせ、教会にテンプル騎士団の排除に同意するようせまった。
1307年10月13日、テンプル騎士団は拘束された。
この日は金曜日だった。
騎士団全体の10から20%の人数が捕まり、彼らは拷問の後、火あぶりとなった。
残りの騎士たちがどうなったのかは議論が分かれるという。
一部は財産(おそらく聖杯も)を幌馬車に積み込み、持っていた船が停泊していたラ・ロッシェルまで運んだとも言われている。
その先の行方としては2つの有力な説がある。
1つはテンプル騎士団がキリストの騎士団として生まれ変わったポルトガル。
もう1つはスコットランドである。
テンプル騎士団はスコットランド王ロバート1世につかえていた。
1328年の独立戦争終結までスコットランド軍と共にイングランドと戦った。
そんな中、テンプル騎士団の一部は財宝を誰の手にも届かないアメリカへ運んだのではないかという説がある。
実はこの頃、すでにヴァイキングたちの子孫によってアメリカ大陸について、存在やそこへ至る道のりなどの知識はすでにあったのだという。
アイスランドやグリーンランドの探険や、毛皮貿易を行っていたスカンジナビア人と交流する中でテンプル騎士団はアメリカの知識を得て、迫害から逃れ、騎士団を再生するためにアメリカ移住を決意した可能性は無いとは言えない。
ケンジントン・ルーン・ストーンに刻まれている文の言語、方言、ルーン文字、文法、日付は14世紀のものであり、1362年という石に刻まれた文字とも一致する。
スコット・ウォルターは石が本物なら14世紀のものと見て間違いないだろうという。
オーマンが石を捏造したのではないことはほぼ明らかになったが、誰が石に文字を刻んだのだろうか?
どうやら刻まれた幾つかの文字は古スウェーデン語ではないようなのだ。
そもそもこの文字が石が刻まれたとされる14世紀にどこかに存在していたことを証明しなければならない。
そうでなければその文字は偽物であり、石も誰かがいたずらなどの目的で作ったものとなる可能性が高まるのだ。
ケンジントン・ルーン・ストーンに刻まれた文字を明らかにするために必要な情報が出てきたのは最近のことだとウォルターは言う。
ウォルターはケンジントン・ルーン・ストーンに浅い角度から光を当て、それまで見落とされてきた、文字についてる点や線の存在に気づいた。
この特徴的な点や線がついた文字は14世紀、どこで誰が使っていたのだろうか?
Rの環の中に点がある文字は中世スウェーデンの墓石にも見られるという。
一方、スカンジナビアのルーン文字にはめったに現れないという。
1935年ごろまで現地の専門家たちでも気がつかなかったのである。
1898年のケンジントン・ルーン・ストーンがオーマンの捏造ではないことのもう一つの有力な根拠である。
中世の文字かどうかを見極めるのは点のついたRではなく、その他の文字が重要だと懐疑論者は言う。
注目されるのは、文字の上にある2つの点、ウムラウトである。
ウムラウトは14世紀の半ば頃には無かったと言語学者は指摘する。
石には、鈎つきのX(Xの右上に線がついている)にウムラウトがついている文字があるが、ヴァイキングやその子孫が使っていた古スウェーデン語からはこの文字は見つかっていない。
ウムラウト以前に鈎つきのXはケンジントン・ルーン・ストーン以外には発見できなかったのである。
このことからケンジントン・ルーン・ストーンは偽物であると長い間考えられてきた。
しかし、2004年に重要な発見があった。
その年、ラルソン・ペーパー(LARSSON PAPERS)という文書が発見され、そこに鈎つきのXが使われていたのだ。
1883年と1885年に書かれたとされるその文書はフリーメイソンがルーン文字を使っていたことをうかがわせるものだ。
ラルソン・ペーパーはフリーメイソンの暗号を解読する手段であるという主張もある。
フリーメイソンはテンプル騎士団の子孫にあたる組織だとも言われ、ラルソン・ペーパーこそがその証拠だというものもいる。
ケンジントン・ルーン・ストーンのその他の特徴的な文字もラルソン・ペーパーには使われている。
ケンジントン・ルーン・ストーン懐疑論者にしてみると、似たような特徴を持つ文字をあちこちから見つけてきた結果、主張に一貫性が無くなっているという。
ケンジントン・ルーン・ストーンにある文字を網羅した文書は今の所見つかっていない。
しかし、ほとんどのルーン文字を使っているものが存在する。
それはバルト海の島、ゴッドランド島にあるシトー修道会の教会のものである。
ウォルターはその教会で点のついたRの刻まれた墓石を発見した。
さらにその墓石には二重日付という形式で刻まれた日付があった。
ルーン文字で1450 -1 と書かれた部分とイースターテーブルを使った日付の2つである。
シトー修道会はイースターテーブルというルーン文字の一覧表を使って重要な文書に二重に日付をつけていたという。
ケンジントン・ルーン・ストーンに通常は使われていない横線は入った文字があり、もしかするとこのイースターテーブルを使った秘密の暗号かも知れないとウォルターは考えている。
イースターテーブルとケンジントン・ルーン・ストーンに書かれたその特徴的な文字を照合するとなんと石に刻まれた日付にあった1362年という年が出てくるのだ。
つまり、二重日付である。
二重日付がケンジントン・ルーン・ストーンにあるとすればケンジントン・ルーン・ストーンはただのいたずらなどで作られた石ではなくなる。
ケンジントン・ルーン・ストーンには石からの距離が移動した日時によって記されているいるため、土地の所有権を主張するものだとも考えられるという。
土地の権利を石などに刻むことからもシトー修道会との関係がうかがい知れるという。
つまりテンプル騎士団とも関係があるということだ。
元の文書が「ヴィンランドの西から発見の旅に出たスウェーデン人とノルウェー人が野営を張った。」の「発見」の部分が「獲得」と修正されたことも、石が土地の権利を主張しているという考えを補強する根拠となっている。
騎士たちは十分な教育を受けていなかったのでルーン文字を刻むことはできなかっただろうが、シトー修道会の修道士ならそれができただろう。
土地の所有権を主張するためだとすれば、自分たちが最初にこの地へ来たと示すため、例え仲間が死んでいても、自分たちが襲われる危険があっても、石に文字を刻み込んだ可能性はある。
テンプル騎士団が交流を持っていた古代スカンジナビア人は毛皮貿易などで1492年以前からアメリカ大陸へ渡り、現地の人たちと交易していたという。
1824年、グリーンランドのウペルナビクからルーンストーンが発見された。
1314年に古代スカンジナビア人がこの地へ渡ったときのことが刻まれている。
そしてこのルーンストーンにもイースターテーブルを使った二重日付が使われていた。
二重日付はシトー修道会、そしてテンプル騎士団が来ていた証拠だという。
シトー修道会にとって羊は重要な家畜であり、テンプル騎士団が再生する際にも重要な資金源になる。
グリーンランドを超えてはるか西にある新大陸はその羊を飼うのに向いているかも知れないということがテンプル騎士団をアメリカ大陸へ向かわせる動機となった。
人類学者のアリス・キーホーはテンプル騎士団がアメリカ大陸へ行ったことには異を唱えるが古代スカンジナビア人が内陸部のケンジントンまで行ったことは有りうると考えている。
1000年にはヴァイキングがアメリカ大陸へたどり着いているので、その時の知識やルートを使えば1362年ならばアメリカ大陸へたどり着けただろうと彼女は言う。
ケンジントンにたどり着くのに考えられるルートは2つあるが、その2つともケンジントン・ルーン・ストーン「島から14日の旅。」と矛盾しない。
オロフ・オーマンの子孫によるとオーマンの農場の一帯に特徴的な穴の空いた石が複数あるという。
これは船を係留するためのものだというが、古代スカンジナビア人やテンプル騎士団が来たときにその農場あたりまで水があるほど水位が高かったかについては疑問が残るという。
ケンジントン・ルーン・ストーンの発見者のオロフ・オーマンが石を撤去するのに爆薬を使ったあとではないかという懐疑論者もいる。
しかし、オーマンがそんなことを行っていた記録もなく、遠く離れたグリーンランドでも似たような石が見つかっている。
スコット・ウォルターによるといくつか考えられることがあるという。
1つはそこへ戻って来られるようにマイルストーン的な足跡を残したという説。
穴の空いた石が見つかった複数の場所の位置同士を線で結ぶとその交点はケンジントン・ルーン・ストーンが見つかった場所になるという。
サウスダコタ州コロナからは単純な穴だけでなく、ナイフやヴァイキングが使っていたという角型のコップをかたどった窪みがある石が発見されている。
土地の権利の譲渡にナイフや角は重要な役割を持っていたと言われ、かたどった石のその印ではないか?とウォルターは言う。
ウォルターによれば、角型のコップをかたどった穴がある石の1つは花崗岩で斜長石、正長石、石英などが含まれており、それが風化して深い窪みができたと考えられるという。
深い窪みができるまでには長い期間の風化が考えられ、それだけその窪みの元となった跡は古い頃のものだろうというのである。
また、ミシガン州の半島の先端あたりで見つかった石には丸に十字のマークのようなものが刻まれている。
そのモチーフは他の場所や組織でも使われていたため、テンプル騎士団のものと結論付けるのは難しい。
船の形が刻まれた石もある。
テンプル騎士団自身が刻んだものではないかも知れないが、もしかするとテンプル騎士団たちの船や帆などに十字が描かれているのを見て、アメリカ先住民が刻んだものかも知れない。
丸に十字の文様が刻まれた石はイリノイ州南部でも発見されている。
1982年に出土したものには、その石の他、古代エジプトの壁画にあるようなモチーフのものなどもある。
後編へ続く。