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Ubuntu17.10ベースのPuppy LinuxであるArtfulPupを試してみる

Puppy Linux Discussion Forum :: View topic - ArtfulPup

16.04ベースのXenialPup64がうちのマシンでは動かなかった。

そこでSlacko64を試してみた。

Slacko64にはカーネルバージョンの異なるイメージが3つあり、XenialPup64と同じ、ver. 4.9のものはやっぱり動かなかった。

4.4のものは動いたので、カーネルに原因があるのでは?と考えている。

今回、試してみるArtfulPupもカーネルが4.9.59なので、動かないのではないかな・・・と思う。

Index of /puppylinux/puppy-artful/

他のPuppyはほとんどがdistro.ibiblio.orgに本体があるのだが、このArtfulPupはHTMLファイルが置いてあり、リンクを開くとSourceForgeへ飛ばされる仕組みになっている。

今、ダウンロードしていて、これからインストールするのだが、そのとき調べてみて気になったのは以下の記事。

2017年9月28日 Ubuntu,Artful Aardvarkで32ビット版サポートを中止へ:Linux Daily Topics|gihyo.jp … 技術評論社

ベースとしているUbuntuは17.10から32bitのサポートをやめたようなのだ。

しかし、ArtfulPupは32bit版である。

これはインストールして仮に動いてもUbuntuリポジトリは利用できないということだろうか?

しかし、この記事を見るとちょっとそうではないらしい。

Ubuntu 17.10 その84 - Ubuntu Desktop 32bit版のディスクイメージ提供終了へ - kledgeb

32bit版のCDイメージを提供しないことにしたということらしい。

ということは前のバージョンの32bit版からのアップグレードはできるということだろう。

とすると32bit版のリポジトリはあるのと思う。

本当にそろそろ32bitは無くなっていくのだろうな。

Ubuntuから32bit版が完全に無くなったら、当然、それをベースとしたPuppyも無くなるのではないか?

Slackwareベースのものだけになっていくかも知れない。

UbuntuがベースにしているDebianはどのくらい32bit版を提供していくかによるのか?

今、手元には32bitしか動かないようなPCは無いから64bit版への移行で問題ないが、ちょっと寂しい気持ちもある。

実際、32bit対応のアプリケーションも少なくなっていくだろうから、この流れは止められないだろうけれども。

これから試してみるが、できれば4.9以外のカーネルも提供してくれないだろうか?

4.10とか。


追記

試してみたところ、ある程度、うまく動いているようだ。

ただ、やっぱり時々止まる。

XenialPup64やカーネル4.9のSlacko64のように完全にフリーズしてキー入力すら効かなくなるということはなく、しばらくすると復帰する。

また、困ったのはWiFiが使えなかったことだ。

XenialPupやSlackoでもこんなことはなかったので困ってしまった。

home.gamer.com.tw

www.intel.co.jp

ここから該当のカーネルモジュールをダウンロードして使ってみたがどうもうまくいかない。

どうやら「iwlwifi-3160-14.ucode」ではなく、「iwlwifi-3160-17.ucode」が必要であるらしい。

本当は32bitのものを使うのがよいのだろうが、XenialPup64にあったのを流用したらうまくいった。

Frugalインストールの場合だが、具体的には

XenialPup64をインストールしたディレクトリにある「zdrv_xenialpup64_7.0.8.6.sfs」をダブルクリックして開く。

ArtfulPupのディレクトリで端末を開き

unsquashfs fdrv_artfulpup_17.11.sfs

としてSFSファイルを解凍する。

すると「squashfs-root」というディレクトリができる。

「zdrv_xenialpup64_7.0.8.6.sfs」をダブルクリックして開いたウィンドウで「/lib/firmware」へ移動して「iwlwifi-3160-17.ucode」を探す。

それを「squashfs-root」の下にある「/lib/firmware」へコピーする。

そして、「squashfs-root」の上の階層へ移動する。

「fdrv_artfulpup_17.11.sfs」を別の場所へ移動して読み込まれないようにする。

以下のコマンドを実行して、新しい「fdrv_artfulpup_17.11.sfs」を作る。

mksquashfs squashfs-root fdrv_artfulpup_17.11.sfs

そして、再起動だ。

うまくいけば、無線LANアダプタが認識される。

もし、これでダメならば、

BootManagerの「モジュール」で「新しいモジュールを追加する」というボタンを押し、一覧から「iwlmvm」を追加する。

ネットにはつながるようになったのでしばらく様子を見てみる。

標準で入っていたブラウザはFirefoxの機能を削ったブラウザであるLightが入っていた。

古いマシンの場合には軽くて良いかもしれないが、更新が大分前に止まっているようなのでFirefoxのバージョン57(Firefox Quantum)をインストールした。

いつものようにPulseAudioもインストールしたのだが、XenialPupなどではできていた

pulseaudio --start

が失敗してしまい、音声が再生されなかった。

pulseというユーザを作り、audioというグループにいれるなどという方法も試したがうまくいかなかった・・・

apulseを使おうかな…


sakurapup.browserloadofcoolness.com • トピック - tahrpup用 apulse-0.1.8.pet(32/64bit) firefox52 PulseAudio対策

上のPuppy Linux日本語フォーラムのスレッドからapulseをダウンロードしてインストールし、apulseを使ってみたところ、それでもエラーが出て音が出なかった。

調べて見たところ、以下の記事が見つかった。

apulse can't open playback device when alsaequal is used · Issue #55 · i-rinat/apulse · GitHub

どうやら前に書いた記事で紹介した

arekorebibouroku.hateblo.jp

Firefoxのabout:configのsecurity.sandbox.content.write_path_whitelistという項目にさらに

/dev/snd/,/usr/share/alsa/alsa.conf,/usr/share/alsa/cards/,/usr/share/alsa/pcm/,/etc/asound.conf,/usr/share/alsa/alsa.conf.d/,/usr/lib/alsa-lib/libasound_module_pcm_equal.so,/home/{username}/.alsaequal.bin,/home/{username}/.asoundrc

を追加しないといけないようだ。

{username}はアカウント名(ユーザー名)であり、Puppy Linuxの場合、当然rootとなる。

結局、

/dev/snd/controlC0,/dev/snd/pcmC0D0p,/dev/snd/controlC1,/dev/snd/pcmC1Dop,/dev/snd/pcmC0D0c,/dev/snd/,/usr/share/alsa/alsa.conf,/usr/share/alsa/cards/,/usr/share/alsa/pcm/,/etc/asound.conf,/usr/share/alsa/alsa.conf.d/,/usr/lib/alsa-lib/libasound_module_pcm_equal.so,/home/root/.alsaequal.bin,/home/root/.asoundrc

とした。

無事、YouTubeの動画の音は再生できた。

今回はAbemaTVも再生できた。

これで常用できそうだ。

なお、Firefoxをインストールしたので、Lightはもういらない。 じ通常は削除しても変更したことになって見えなくなるだけで、SFSファイルから消えることはない。

ArtfulPupはいくつかのSFSファイルに分かれており、Web Browserは「adrv_artfulpup_17.11.sfs」に入っている。

「adrv_artfulpup_17.11.sfs」をArtfulPupをインストールしたディレクトリから削除すれば読み込まれなくなり、実際にLightは削除される。

これはサイズを節約したい場合には便利だろう。

だが、細かいところでまだ不具合があるようだ。

タスクバーにあるバッテリーアイコンにマウスポインタを合わせると電池の残り容量がポップアップで表示される。

しかし、これが全然、減らないのである。

いつものようではないようだが、何かの拍子に情報が更新されなくなるらしい。

※やはり、すぐに減らなくなるようだ・・・

表示が減っていないことに気づいて、Xサーバーを再起動したら残り17%になっていた。

クリックすると表示される詳細情報ではバッテリーの容量が減っていることがわかるが、これだとちょっとバッテリー駆動で使うときに不安だ。

テンプル騎士団のアメリカ大陸上陸の謎とアメリカ建国の関係

www.historychannel.co.jp

「聖杯伝説の謎」の後編。

イリノイ州南部の洞窟で、古代エジプトのモチーフが彫り込まれた石などが4000から5000という相当な数で発見された。

1782年から断続的にだ。

その洞窟はリトル・ウォバッシュ川の支流沿いにあると言われているが言い伝えであってはっきりとは分かっていないらしい。

その一帯はリトル・エジプトと呼ばれている。

一説にはミシシッピ川とその支流のオハイオ川に挟まれた土地がエジプトのナイル川にある三角州に見立てて呼ばれたとされている。

そんなリトル・エジプトで古代エジプトを思わせる出土品が出たのは単なる偶然だろうか?

出土したものにはエジプトや宗教的場面、様々な神々が描かれているという。

そして、これはテンプル騎士団が罪に問われた偶像崇拝になりうるモチーフだ。

出土品の1つは犬または狼の頭を持つアヌビスに似た女神で、一方に杖、もう一方の手にはエジプトの十字架とも言えるアンクを持っている絵が描かれている。

丸に十字のマークも見つかった。

ミシガン州の半島にあったものと似ている。

出土した場所ははっきり分かってはいないものの、ケンジントン・ルーン・ストーンで主張している土地の境界線の範囲だという。

当時は大きな川の水源で、石を埋めたことを証明できれば、その川と隣接する土地の所有権を主張できたとされる。

ミシシッピ川からレッド川の北、そしてハドソン湾までの北アメリカを縦断する境界線であり、それはつまり北アメリカの半分の所有権を主張していたことになるという。

イリノイ州南部で出土したものについて大半の考古学者は偽物だと考えている。

真偽はさておくとしても、これらはテンプル騎士団の財宝では無いだろう。

しかし、テンプル騎士団とエジプトの関係はあるかも知れない。

エルサレムの神殿の丘で探していたものは聖杯だけでなく、出エジプトを旗下モーゼの記録だったという説を唱えるものがいる。

テンプル騎士団が財宝と共に持ち帰ったと思われるものにゴシック様式の大聖堂があることが理由の1つだ。

ヨーロッパに新たな建築様式、セント・アーチ、アーチ型の天井、数学、幾何学を持ち込んだのである。

数学、幾何学は紙や頭の中で一定の操作をすると現実世界を何故かうまく説明できたり、特定の数字が何度も出てきたりするなど不可思議なところがあり、そのために神聖視も異端視もされてきたとされる。

テンプル騎士団はそれらを含むエルサレムからの財宝をアメリカに持ち込んだことをうかがわせる証拠がケンジントン・ルーン・ストーンにあるとスコット・ウォルターは言う。

石に刻まれた文字から点や線がついている特徴的な文字を抜き出すと「聖杯」を意味する単語になるという。

言語学者は、土地の所有権を主張するのに、読める人が極端に少ないルーン文字、そして暗号を隠すなどというのはナンセンスでありえないと疑問を呈す。

しかし、ウォルターによって石の年代が14世紀で間違いないとなれば、もう一度、石やそこに刻まれた文字について調べ直す必要があると主張する者もいる。

テンプル騎士団ケンジントン・ルーン・ストーンとのつながりは2回あったという新たな説も登場した。

1398年に航海に出たヘンリー・シンクレアの伝説がそれである。

ノバスコシア州に住んでいたミクマク族にはこんな言い伝えがある。

「男が東の方角からクジラに乗ってやってきた」

コロンブスによるアメリカ大陸発見の100年ほど前のことだという。

それがヘンリー・シンクレアだという説である。

シンクレア家はヴァイキングの子孫であり、スコットランドでもっとも有名な一族の1つだ。

スコットランド国王に直接仕えており、スコットランド統治を語る上で外せない一族だという。

シンクレア家は1400年代の半ば、ダヴィンチ・コードで有名になったロスリン・チャペルを建設した。

そのチャペルにもあの鈎つきのXがあるというのだ。

それもそのはず、シンクレア家もテンプル騎士団だったという見方があるのだ。

1307年、多くの騎士たちが拘束された時期は、シンクレア家がスコットランドに住み、新しいスコットランド国王ロバート1世が誕生した頃であった。

ロバート1世は後にローマ法王から破門されている。

バノックバーンの戦い - Wikipedia

テンプル騎士団と同じ境遇であった上、テンプル騎士団スコットランド側についてバノックバーンの戦いに参加している。

テンプル騎士団が参戦したことでイングランド軍は劣勢となった。

最終的にスコットランドは独立を勝ち取ったのだ。

1329年、ロバート1世は死後に自分の遺体をエルサレムへ運ぶように願った。

シンクレア家とテンプル騎士団はその願いを叶えようとした。

しかし途中でイスラム教徒の攻撃にあい遺体を奪われ、心臓のみが返されたという。

騎士たちはその心臓をスコットランドへ持ち帰り、メルローズ修道院に埋葬したと言われている。

(一般的な説では、異なっており、遺体は元々スコットランドにあり、心臓を戦意高揚ために聖地へ持っていくように言ったとされている。

ロバート1世 (スコットランド王) - Wikipedia )

そんな苦難を経験し、シンクレア家とテンプル騎士団との絆は固く結ばれた。

1345年に生まれたヘンリー・シンクレアはテンプル騎士団の聖杯の秘密を知っていた可能性は大いに有り得るという。

1398年の航海ではその聖杯を含む財宝を探したか、もしくはテンプル騎士団からそれを託されヨーロッパから持ち出したかも知れない。

地図を作りたいというジーノという男をヘンリー・シンクレアは船長に任命し、グリーンランドを探検した際に、地元の漁民から新大陸の話を聞いたという伝説がある。

そして、ノバスコシアにたどり着き、ミクマク族と交流したという。

ミクマク族の言い伝えにグルースカップという男の物語があり、ノバスコシアでのシンクレアの貢献と符合するものがあるという指摘がある。

ブロミドン山に住んでいたというグルースカップは山頂で裁判を行っていたという。

裁判というのはヨーロッパ的な仕組みで、ミクマク族の思想に元々あったとは考えにくく、裁判をしていたのはヘンリー・シンクレアではないか?と考えられるのだという。

この他にも1970年代に歴史家のフレデリック・ポールはグルースカップとヘンリー・シンクレアの17件の類似性を発表している。

The Curse of Oak Island, Season 4, Episode 2: Always Forward - Canada History and Mysteries

さらにはシンクレアとの遭遇以後に作られたミクマク族の旗は白地に赤の十字架、そして星と月が描かれており、シンクレアの公開時に船に掲げられた旗と瓜二つなのだ。

ノバスコシア州の南の沖合いにはオーク・アイランドという島があり、この島には財宝が眠っているという伝説がある。

オーク・アイランドの名前の由来になっている樫の木は自然に生えたものではないという。

ヘンリー・シンクレアが植林したのかも知れない。

1795年、宝探しにその島へ来た3人の少年が一定間隔ごとに足場がある人工の竪坑を発見した。

足場は10フィート(約3メートル)ごとに作られており、90フィートのところで石碑が見つかった。

石碑にはさらに30フィートのところに財宝が眠っていると書かれていた。

しかし、そこにあったのは罠だったのである。

オーク・アイランドの入り江につながる人工の水路によって水にせり上がってくる仕組みになっており、発掘は頓挫した。

研究者によれば、これを作ったのもヘンリー・シンクレアだという。

多くの実業家が財宝発掘に莫大な資金をつぎ込んだが誰も発見できなかった。

中にはフランクリン・ルーズベルト大統領やエロール・フリンジョン・ウェインもいたとされる。

オーク・アイランドから少し離れたところにニュー・ロスという町が有り、1970年代に町の人たちが土の中から沢山の並べられた石を発見した。

どうやら城の土台らしいことがわかった。

14世紀の住居らしいとされ、住んでいた人物はヘンリー・シンクレアだと言われている。

マサチューセッツ州ウェストフォードには文様が描かれた岩盤があり、ヘンリー・シンクレアがノバスコシアを越え、ニューイングランド沿岸へ到達した証拠とされている。

Westford Knight - Wikipedia

この岩盤は「ウェストフォードの騎士」と呼ばれている。

中世の剣と盾を持ち、兜をかぶった騎士が描かれているのだ。

とは言うものの残念ながら長い間、風雨にさらされていたために、現在はその絵は古い写真で何とか確認できるのみだという。

ヘンリー・シンクレアと共に旅をした者の墓だとされ、その人物はジェームス・ガン卿だと判明しているという。

しかし、古い写真の影で騎士のように見えるだけではっきり残っている中世の剣だけが確かなものだという意見もある。

また、岩盤は以前に文様を見やすくするために油などがつけられたせいで年代測定ができないという。

シンクレアの子孫たちはその岩盤の信憑性は高いと考えている。

ウェストフォードではこの他にも1350から1400年頃の船が彫られた石も見つかっている。

出発地とされるメーン州スピリット池(Spirit Pond)では1971年にウォルター・エリオットが岩に座ってタバコを吸っていたときに足元に文字が刻まれた石を見つけている。

Spirit Pond runestones - Wikipedia

ルーン文字が刻まれた石、地図が刻まれた石、そしてノルウェー・ストーンと呼ばれる石が見つかっている。

文字が刻まれている石は航海記録と考えられているが、ルーン文字は区切りの記号やスペースが無いため解読が難しく、完全には分かってないという。

ケンジントン・ルーン・ストーンにある血まみれで死んでいた乗組員に関する記述だという説もある。

石には1401年、1402年という記述があり、シンクレア一行のものであってもおかしくない。

そして、その日付の記述はイースターテーブルを用いたものだ。

しかし、ウォルター・エリオットがケンジントン・ルーン・ストーンを模して作った偽物だという説が有力だという。

しかし、一緒に見つかった地図には興味深い特徴があるという。

スピリット池周辺の様子がある程度、詳しく描かれ、東が上になっている。

これは中世の地図と同じだ。

裏にはルーン文字で「良い土地」と書かれている。

魚、鹿、アヒル、カヌーに乗った人間、先住民の顔も描かれている。

「ヴィンランドには2日かかる」という記述と右向きの矢印も描かれているという。

その地図で考えると南の方角であり、スピリット池から2日南下するとケープコッドのナラガンセット湾に至る。

そこからも1989年に鍵付きのXが刻まれたルーン・ストーンが見つかっている。

Narragansett Runestone - Wikipedia

ナラガンセットストーンと呼ばれている。

潮が満ちると隠れてしまうところにあるが、ヘンリー・シンクレアたちが探検した頃には陸の上だったという。

ナラガンセット湾近くのロードアイランド州ニューポートに長年、謎であったニューポート・タワーと呼ばれる石の塔がある。

Newport Tower (Rhode Island) - Wikipedia

17世紀のベネディクト・アーノルドの時代に建てられた風車という説が一般的だが、風車として使われた痕跡はない。

さらに、イタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ベラッツァーノの作った地図には「ノルマンの別荘」としてこのニューポート・タワーが記載されているというのだ。

懐疑論者はベネディクト・アーノルドが故郷近くのイングランド、チェスタートンの風車を模して建てたと主張するがチェスタートンの風車の足は6本でニューポート・タワーは8本である。

建築家の中にはニューポート・タワーは中世のもので17世紀のものではないという者もいる。

ニューポート・タワーがテンプル騎士団が建てたものなら屋根があり、柱で支えられた回廊があるだろうと考えられるという。

イギリス、ケンブリッジのラウンド・チャーチやロンドンのテンプル教会のような形だ。

実際、最近の研究でニューポート・タワーにはそれらはあったことが分かってきているという。

天文学に基づいた窓などの配置が使われていることもわかった。

1500年代にはカレンダーのようなものを印刷することができるようになり、天文学的な配置などを用いて日付を知る必要は無くなっているので、ニューポート・タワーはそれより前のものではないかという研究者もいる。

ニューポート・タワーは冬至の日の朝9時に窓から日の光が差し込み、内部のキーストーンと呼ばれる卵形の石を照らすという。

建物は宗教的なものであると考える力が合理的かも知れない。

ニューポート・タワーに用いられている天文学的な手法は、それだけではない。

ニューポート・タワーの西北西にあるキーストーンと中心を線で結び、それを西の方へ伸ばすとケンジントンに到達するという。

2400km先のケンジントン・ルーン・ストーンを指し示す仕組みをニューポート・タワーに組み込める高い数学、天文学的な知識、建築技術を持っていたものは誰か?

ヘンリー・シンクレアしかいないと専門家たちは口をそろえる。

では、シンクレア一行はどうなったのか?

それは伝染病と関係あるかも知れない。

1362年頃、ヨーロッパでは伝染病が流行っていた。

もしかするとケンジントン・ルーン・ストーンに記述されている、血まみれの男達というのは伝染病だった可能性もある。

発熱、出血、そして皮膚は最初は赤く、最後には黒くなって死ぬという。

ペスト - Wikipedia

黒死病(ペスト)の特徴である。

ネズミが感染経路の主なもので船に忍び込めば、アメリカへ来た者たちも病気になる可能性はある。

1400年前後にミクマク族の数が減ったとされており、その原因はテンプル騎士団が病気を持ち込んだせいかも知れない。

コロンブスの航海の計画が持ち上がるまでには、ペストの流行が収束し、社会が安定するのを待たなければならなかった。

コロンブスポルトガルでキリストの騎士団として生まれ変わっていたテンプル騎士団とつながりがあったとされる。

コロンブスはシンクレア家と親戚関係にあり、義理の父はキリストの騎士団のグランドマスターで船の船長でもあったという。

コロンブスは彼らを通じてアメリカ大陸の場所や行き方をあらかじめ知っていたかも知れないのだ。

コロンブステンプル騎士団との関係をうかがわせるものは他にもあり、船の帆に赤い十字を描いていたり、手書きの署名に鈎つきXを使っていたという。

アメリカは友愛結社フリーメイソンが作ったという説がある。

フリーメイソンは個人の自由を重要な考えとして掲げており、名前の由来でもあるという。

元は石工たちのギルドのようなものであったというフリーメイソン

それが誕生したのはテンプル騎士団解体後のスコットランドだった。

アメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンはアメリカにおけるフリーメイソンの初期メンバーの一人。

ポール・リディア、ジョン・ハンコック、ベンジャミン・フランクリン、ジェームス・マディソンもフリーメイソンだという。

政教分離の考えはフリーメイソンの考えだと識者は語る。

異端視され迫害されたテンプル騎士団にとっては国が特定の宗教を優遇し、それ以外には圧力を加えることを良しとしないフリーメイソンの考えは共感できただろう。

テンプル騎士団が糾弾された理由の1つには、聖母マリアの崇拝があったという。

キリスト教偶像崇拝しているように思えるが、人として生まれたキリストとその母の偶像があるだけで神の偶像は今でも禁止されているという。

キリストの母ということで一般の人よりは尊いかも知れないが、神のごとく崇拝するのは異端だということだろう。

国家と宗教の分離は今でこそ当たり前に思えるほど受け入れられているが、当時は革新的で危険視されかねない考えだったという。

フリーメイソンは寓話やシンボル、儀式などを隠れ蓑として使ってきた。

フリーメイソンについて書かれているというラルソン・ペーパーには鈎つきのXが書かれている。

鈎つきのXこそ、テンプル騎士団ケンジントン・ルーン・ストーンを始めとするアメリカ各地で見つかっているルーン・ストーン、そしてフリーメイソンをつなぐものなのである。

先史時代以降、古代の人々は図形に特別な意味を見出してきた。

テンプル騎士団もこの「聖なる幾何学」を尊び、建築などに取り入れてきた。

ロスリン・チャペルでもこの概念は使われた。

そして建築を作るメンバーには石工がいる。

ワシントンD.C.の町のレイアウトにも五芒星などの幾何学的文様が使われている。

ジョージ・ワシントンワシントンD.C.を10マイル四方の区画内に収めた。

ニューポート・タワーは八角形であるが、テンプル騎士団が用いていた十字架は角が広がった特徴的な形をしており、角は8つである。

「聖なる幾何学」の概念がエジプトのものであるとすればテンプル騎士団はそれをエルサレムで得た可能性はある。

知識こそが財宝そのものであるかも知れないとスコット・ウォルターは言う。

それを使ってテンプル騎士団は新エルサレムとも呼べる理想国家をアメリカに作ったのだと。

テンプル騎士団の秘密はまだはっきりとはわかっていない。

しかし、ケンジントン・ルーン・ストーンの発見者であるオロフ・オーマンの汚名は雪がれたと言って良いだろう。


テンプル騎士団というのは名前は知っていたが、その歴史は知らなかった。

アメリカに行っていたかはわからないが、フランス国王の借金など、政治的な理由で異端視され、ポルトガルスコットランドなどへ逃れたというのは本当だ。

また、ヴァイキングが紀元1000年という随分と昔にアメリカ大陸へ渡り、一時期、居住していたというのも初めて知った。

コロンブスの頃には、新大陸の存在はかなり確度の高い、ほとんど事実だった可能性があるのだ。

アメリカ合州国憲法に署名したメンバーの多くがフリーメイソンだったというのも興味深い。

フリーメイソンというと秘密結社で、秘密結社というとKKKなど、白人やキリスト教の至上主義の組織を思い浮かべる。

しかし、フリーメイソンは国家と宗教の分離、特定の宗教が優遇されたり、反対に迫害されたりしない社会を目指していたのだ。

フリーメイソンは仏教も、そしてイスラム教も受け入れる懐の深い友愛結社なのだった。

夢が有り、とてもおもしろい番組だった。


テンプル騎士団がコロンブス以前にアメリカ大陸に来ていたという番組を見た

ヒストリーチャンネル『聖杯伝説の謎(HOLY GRAIL IN AMERICA)』

www.historychannel.co.jp

1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見したというのは歴史の授業でも習う有名な事柄だ。

しかし、それ以前にヨーロッパ人はアメリカ大陸に渡っていたことが明らかになっている。

その最初はバイキングだったと言われている(AC1000年頃)。

後の探検家はその時の地図や知識を利用していたというのである。

騎士によって作られたテンプル騎士団(修道会)は迫害を受け、一部がヴァイキングの知識を使ってアメリカに逃れたという説もある。


Kensington Runestone - Wikipedia

1898年の秋、ミネソタ州ケンジントンで、スウェーデン人移民のオロフ・オーマンが敷地のポプラの木を取り除こうとしていた。

木を倒すと、根が絡んだ石が出てきた。

その石には何かが彫られていた。

良くわからなかったが、オーマンはスウェーデン人だったため、それが古スウェーデン語のルーン文字に似ていることに気がついた。

その石の噂は広まり、さらにオーマンが専門家に文字の解読を依頼したこともあり、注目された。

オーマンが有名になるためのでっち上げだという人もいる。

しかし、近所の数人がなぎ倒された木とその根に絡んだ石を見ているという。

オーマンの家にルーン文字の本が有ったことはわかっているので、それを使って自分で石に文字を刻んだのではないか?と懐疑派は言う。

オーマンの子孫は、それらの本はオーマンが石が発見されたあとにその文字を調べるために手に入れたものだと主張している。

またスウェーデン人だとしても、刻まれている文章は素人ではとても作ることはできないともいう。

中世スカンジナビアにはその地方のルーン文字(方言のようなものか?)で刻まれた石碑はいくつもあり珍しくないそうだが、アメリカにそれがあるというのは普通では考えられない。

ミネソタの石(のちにケンジントン・ルーン・ストーンと呼ばれる)に刻まれた文字は書き写され、世界中のルーン文字学者やスカンジナビア語専門の言語学者に送られた。

ルーン文字はローマ字のような表音文字でもエジプトのヒエログリフのような象形文字とも異なり、解読するのはとても難しいと言われている。

ミネソタ大学のオラウス・ブレーダは初めて大まかな翻訳に成功した。

それによると、

ヴィンランドの西から発見の旅に出たスウェーデン人とノルウェー人が野営を張った。この石から北に一日のところで終日釣りをした。帰ってくると、仲間達が血まみれで息絶えていたのを発見した。悪から守り給え。海にいた仲間達に船を見張らせる。島から???日の旅。????年

というようなものだった。

この翻訳では日付はわからなかったが、その後、イリノイ州ノースウェスタン大学のゲルマン語教授ジョージ・カームが新たな翻訳を発表する。

旅に出たものの内訳は「スウェーデン出身のゴート人8人とノルウェー人22人」だという。

そして「島から14日の旅。1362年」だと判明した。

コロンブスがアメリカを発見した1492年より130年も前の話だということになる。

ルーン文字の専門家たちによって翻訳は若干修正された。

その時、偽のルーン文字や1362年にしては新しいルーン文字が使われていたことが分かったとされた。

信憑性は大いに損なわれた。

しかし、言語学とは違ったアプローチもあった。

地質学者のニュートン・ウィンチェルが1910年に行った研究だ。

ウィンチェルは鉱物からサンプルを抽出し、成分を特定して風化具合から年代を推定したのである。

彼は石は本物であると結論づけた。

だが、大半の学者達は納得しなかった。

仲間が何者かに襲われて死んでいたのに、襲ったものがまた戻ってくるかも知れなかったのにそこにとどまり、石に悠長に文字を刻み込んでいたなどということがあっただろうか?というのである。

1893年、アメリカ大陸発見400周年を記念したシカゴ万博が開かれた。

スカンジナビア半島出身の移民たちの多くはヴァイキングこそがアメリカ大陸を発見したと信じていた。

北欧系アメリカ人にとっては万博は屈辱的に写ったようだ。

ヴァイキングの船を模した船をわざわざ作らせて万博会場近く海に浮かべたものもいたという。

石が見つかったのはそんなころのことでちょっとタイミングが良すぎるというのも懐疑的な見方をされる原因となっている。

1960年には晴れてコロンブスよりも前にアメリカ大陸にヴァイキングが上陸していたことが認められた。

ランス・オ・メドー - Wikipedia

ランス・オ・メドー国定史跡|カナダ 文化遺産|世界遺産オンラインガイド

ニューファンドランド島ランス・オ・メドーヴァイキングが住んでいたとされる住居が見つかるのである。

紀元1000年の遺跡である。

そのニューファンドランドこそが、ヴィンランドではないかと言われている。

ケンジントン・ルーン・ストーンはその後、2500ドルで実業家に買い取られた。

現在ではケンジントンの近くにあるアレクサンドリアのルーン・ストーン博物館に保管されている。

石は偽物であるということでほぼ結論付けられ、忘れ去られるかと思われていたが、そうはならなかった。

2000年、地質学者のスコット・ウォルターに博物館から石を分析するよう依頼があった。

ウォルターは文字が新しく見えることに気づいた。

ただ、文字の溝の底の部分は新しいのに側面は風化しているのが不自然だった。

実は発見者のオーマンが釘など尖ったもので文字をなぞって傷つけていたのである。

土を取り除き、見やすくしようとしたのだろう。

これで文字が新しいかどうかで真贋を見極めることはできなくなった。

ウォルターは発見時に巻き付いていたという木の根の跡にも注目した。

土壌の専門家の助言により、木の根によって石が酸性化し、跡がついたことがわかった。

石が1300年代のものである証拠を求めて、アメリカ入植者の墓地の墓石が調べられた。

墓石の風化具合を調べることで、ケンジントン・ルーン・ストーンがいつから風化を始めたのか推測することができるという。

1806年に建てられた墓石からサンプルをとって調べると墓石とルーンストーンに含まれる黒雲母が石の表面に出てくると200年後から風化が始まることがわかったのである。

ケンジントン・ルーン・ストーン表面の黒雲母はすでに無くなっており、そこから考えるとオーマンが石を見つけた1893年のさらに200年以上前には始まっていたことになるのだ。

オーマンに捏造は無理だということが証明された。

直近で考えると1600年代もありうるが、そのころはアメリカ先住民とフランス人商人くらいしかその地域にはいなかったと思われ、彼らがルーン文字の知識を持っていたとは考えにくい。

とすると石に刻まれた1392年を信じるしか無い。

ウォルターは結果をアメリカ国内の考古学会で報告した。

参加者はウォルターの地質学的見地からの結論については同意したがルーンストーンに書かれた文字の信憑性については取り合わなかった。

ウォルターはルーンストーンの信憑性を確かめるためのさらなる調査を決意する。


ケンジントン・ルーン・ストーンの謎を解く鍵はテンプル騎士団にあるかも知れない。

エルサレム攻囲戦 (1099年) - Wikipedia

1099年、キリスト教徒(十字軍)がエルサレムの町を支配下に収めた。

その数年後、数人の騎士たちがフランス中西部エルサレムへ向かったという。

キリスト教徒が聖地であるエルサレムへ巡礼する際にイスラム教の国や地域を通るため、彼らの護衛をしたのである。

また騎士たちは信用状という仕組みを作り、巡礼者が多額の現金を持ち歩かなくても良いようにした。

騎士たちはエルサレム王から最も神聖とされる神殿の丘に建っていた古いユダヤ教寺院の一角を宿舎として与えられた。

一部の説では騎士たちは神殿の丘の下にあるソロモン王の遺跡の下の財宝を探すために地面を掘っていたという。

契約の箱 - Wikipedia

「契約の箱」を探していたと言われているが、聖杯こそその目的のものだという研究者もいる。

聖杯 - Wikipedia

聖杯自体もそれが何を指すものなのかわかっていない。

キリストが最後の晩餐に用いた杯なのか?

聖なる知恵が書かれた巻物が収められた入れ物なのか?

キリストの血統に関わるものであるという説もある。

そこで見つけたものかは不明だが、騎士たちはエルサレムから価値のある何かを持ち帰ったという。

それは騎士たちの名声や影響力を高め、当時、作られたばかりのシトー修道会の興味をひくものだったという。

クレルヴォーのベルナルドゥス - Wikipedia

シトー修道会のリーダー格クレルヴォーの聖ベルナールが宗教的騎士団を作ることを提案する。

テンプル騎士団の原形である。

イスラム教国との聖戦が行われている最中、他のキリスト教組織などからも、そのような集団が必要だとして受け入れられた。

1128年、テンプル騎士団はローマ法によって正式な騎士修道会として認可された。

エルサレムで10年以上働いたものが中心メンバーとなった。

聖ベルナールはテンプル騎士団の発案者であったこともあり、教会からの厚い信任を得た。

影のローマ法王とも呼べるまでの影響力を勝ち取ったとも言われている。

その聖ベルナールの後ろ盾もあってテンプル騎士団は、中世の経済にも影響力を持つようになる。

騎士団は農業へも取り組み、家畜や毛織物などで資金を集める組織となった。

莫大な資金力を背景に金と物の流通を仕切るようになる。

ヨーロッパの大部分に展開する巨大な運送業者が誕生したようなものだろうか?

その175年後、テンプル騎士団とシトー修道会は協力し、中世産業に革命をもたらす。

騎士団はさらに大きな資金と何隻もの船を手に入れた。

フランス王フィリップ4世とテンプル騎士団は元々は良好な関係だったが、戦費のためにテンプル騎士団に借金をし、返済不能な債務を負った。

それが元で1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団の排除を画策する。

また同じ頃、騎士団を異端とする告発があり、カトリック教会も動き始めていた。

騎士団入会時にいかがわしい儀式が行われているという噂が立っていたのである。

性的な逸脱行為や偶像崇拝の罪で騎士団は告発された。

フィリップ4世はフランスの教会をローマ教会から切り離すことをちらつかせ、教会にテンプル騎士団の排除に同意するようせまった。

1307年10月13日、テンプル騎士団は拘束された。

この日は金曜日だった。

騎士団全体の10から20%の人数が捕まり、彼らは拷問の後、火あぶりとなった。

残りの騎士たちがどうなったのかは議論が分かれるという。

一部は財産(おそらく聖杯も)を幌馬車に積み込み、持っていた船が停泊していたラ・ロッシェルまで運んだとも言われている。

その先の行方としては2つの有力な説がある。

1つはテンプル騎士団がキリストの騎士団として生まれ変わったポルトガル

もう1つはスコットランドである。

テンプル騎士団スコットランド王ロバート1世につかえていた。

スコットランド独立戦争 - Wikipedia

1328年の独立戦争終結までスコットランド軍と共にイングランドと戦った。

そんな中、テンプル騎士団の一部は財宝を誰の手にも届かないアメリカへ運んだのではないかという説がある。

実はこの頃、すでにヴァイキングたちの子孫によってアメリカ大陸について、存在やそこへ至る道のりなどの知識はすでにあったのだという。

アイスランドグリーンランドの探険や、毛皮貿易を行っていたスカンジナビア人と交流する中でテンプル騎士団はアメリカの知識を得て、迫害から逃れ、騎士団を再生するためにアメリカ移住を決意した可能性は無いとは言えない。

ケンジントン・ルーン・ストーンに刻まれている文の言語、方言、ルーン文字、文法、日付は14世紀のものであり、1362年という石に刻まれた文字とも一致する。

スコット・ウォルターは石が本物なら14世紀のものと見て間違いないだろうという。

オーマンが石を捏造したのではないことはほぼ明らかになったが、誰が石に文字を刻んだのだろうか?

どうやら刻まれた幾つかの文字は古スウェーデン語ではないようなのだ。

そもそもこの文字が石が刻まれたとされる14世紀にどこかに存在していたことを証明しなければならない。

そうでなければその文字は偽物であり、石も誰かがいたずらなどの目的で作ったものとなる可能性が高まるのだ。

ケンジントン・ルーン・ストーンに刻まれた文字を明らかにするために必要な情報が出てきたのは最近のことだとウォルターは言う。

ウォルターはケンジントン・ルーン・ストーンに浅い角度から光を当て、それまで見落とされてきた、文字についてる点や線の存在に気づいた。

この特徴的な点や線がついた文字は14世紀、どこで誰が使っていたのだろうか?

Rの環の中に点がある文字は中世スウェーデンの墓石にも見られるという。

一方、スカンジナビアルーン文字にはめったに現れないという。

1935年ごろまで現地の専門家たちでも気がつかなかったのである。

1898年のケンジントン・ルーン・ストーンがオーマンの捏造ではないことのもう一つの有力な根拠である。

中世の文字かどうかを見極めるのは点のついたRではなく、その他の文字が重要だと懐疑論者は言う。

注目されるのは、文字の上にある2つの点、ウムラウトである。

ウムラウトは14世紀の半ば頃には無かったと言語学者は指摘する。

石には、鈎つきのX(Xの右上に線がついている)にウムラウトがついている文字があるが、ヴァイキングやその子孫が使っていた古スウェーデン語からはこの文字は見つかっていない。

ウムラウト以前に鈎つきのXはケンジントン・ルーン・ストーン以外には発見できなかったのである。

このことからケンジントン・ルーン・ストーンは偽物であると長い間考えられてきた。

しかし、2004年に重要な発見があった。

その年、ラルソン・ペーパー(LARSSON PAPERS)という文書が発見され、そこに鈎つきのXが使われていたのだ。

1883年と1885年に書かれたとされるその文書はフリーメイソンルーン文字を使っていたことをうかがわせるものだ。

ラルソン・ペーパーはフリーメイソンの暗号を解読する手段であるという主張もある。

フリーメイソンテンプル騎士団の子孫にあたる組織だとも言われ、ラルソン・ペーパーこそがその証拠だというものもいる。

ケンジントン・ルーン・ストーンのその他の特徴的な文字もラルソン・ペーパーには使われている。

ケンジントン・ルーン・ストーン懐疑論者にしてみると、似たような特徴を持つ文字をあちこちから見つけてきた結果、主張に一貫性が無くなっているという。

ケンジントン・ルーン・ストーンにある文字を網羅した文書は今の所見つかっていない。

しかし、ほとんどのルーン文字を使っているものが存在する。

それはバルト海の島、ゴッドランド島にあるシトー修道会の教会のものである。

Öja Church - Wikipedia

ウォルターはその教会で点のついたRの刻まれた墓石を発見した。

さらにその墓石には二重日付という形式で刻まれた日付があった。

ルーン文字で1450 -1 と書かれた部分とイースターテーブルを使った日付の2つである。

シトー修道会はイースターテーブルというルーン文字の一覧表を使って重要な文書に二重に日付をつけていたという。

ケンジントン・ルーン・ストーンに通常は使われていない横線は入った文字があり、もしかするとこのイースターテーブルを使った秘密の暗号かも知れないとウォルターは考えている。

イースターテーブルとケンジントン・ルーン・ストーンに書かれたその特徴的な文字を照合するとなんと石に刻まれた日付にあった1362年という年が出てくるのだ。

つまり、二重日付である。

二重日付がケンジントン・ルーン・ストーンにあるとすればケンジントン・ルーン・ストーンはただのいたずらなどで作られた石ではなくなる。

ケンジントン・ルーン・ストーンには石からの距離が移動した日時によって記されているいるため、土地の所有権を主張するものだとも考えられるという。

土地の権利を石などに刻むことからもシトー修道会との関係がうかがい知れるという。

つまりテンプル騎士団とも関係があるということだ。

元の文書が「ヴィンランドの西から発見の旅に出たスウェーデン人とノルウェー人が野営を張った。」の「発見」の部分が「獲得」と修正されたことも、石が土地の権利を主張しているという考えを補強する根拠となっている。

騎士たちは十分な教育を受けていなかったのでルーン文字を刻むことはできなかっただろうが、シトー修道会の修道士ならそれができただろう。

土地の所有権を主張するためだとすれば、自分たちが最初にこの地へ来たと示すため、例え仲間が死んでいても、自分たちが襲われる危険があっても、石に文字を刻み込んだ可能性はある。

テンプル騎士団が交流を持っていた古代スカンジナビア人は毛皮貿易などで1492年以前からアメリカ大陸へ渡り、現地の人たちと交易していたという。

ウペルナビク - Wikipedia

1824年、グリーンランドのウペルナビクからルーンストーンが発見された。

1314年に古代スカンジナビア人がこの地へ渡ったときのことが刻まれている。

そしてこのルーンストーンにもイースターテーブルを使った二重日付が使われていた。

二重日付はシトー修道会、そしてテンプル騎士団が来ていた証拠だという。

シトー修道会にとって羊は重要な家畜であり、テンプル騎士団が再生する際にも重要な資金源になる。

グリーンランドを超えてはるか西にある新大陸はその羊を飼うのに向いているかも知れないということがテンプル騎士団をアメリカ大陸へ向かわせる動機となった。

人類学者のアリス・キーホーはテンプル騎士団がアメリカ大陸へ行ったことには異を唱えるが古代スカンジナビア人が内陸部のケンジントンまで行ったことは有りうると考えている。

1000年にはヴァイキングがアメリカ大陸へたどり着いているので、その時の知識やルートを使えば1362年ならばアメリカ大陸へたどり着けただろうと彼女は言う。

ケンジントンにたどり着くのに考えられるルートは2つあるが、その2つともケンジントン・ルーン・ストーン「島から14日の旅。」と矛盾しない。

オロフ・オーマンの子孫によるとオーマンの農場の一帯に特徴的な穴の空いた石が複数あるという。

これは船を係留するためのものだというが、古代スカンジナビア人やテンプル騎士団が来たときにその農場あたりまで水があるほど水位が高かったかについては疑問が残るという。

ケンジントン・ルーン・ストーンの発見者のオロフ・オーマンが石を撤去するのに爆薬を使ったあとではないかという懐疑論者もいる。

しかし、オーマンがそんなことを行っていた記録もなく、遠く離れたグリーンランドでも似たような石が見つかっている。

スコット・ウォルターによるといくつか考えられることがあるという。

1つはそこへ戻って来られるようにマイルストーン的な足跡を残したという説。

穴の空いた石が見つかった複数の場所の位置同士を線で結ぶとその交点はケンジントン・ルーン・ストーンが見つかった場所になるという。

サウスダコタ州コロナからは単純な穴だけでなく、ナイフやヴァイキングが使っていたという角型のコップをかたどった窪みがある石が発見されている。

土地の権利の譲渡にナイフや角は重要な役割を持っていたと言われ、かたどった石のその印ではないか?とウォルターは言う。

ウォルターによれば、角型のコップをかたどった穴がある石の1つは花崗岩で斜長石、正長石、石英などが含まれており、それが風化して深い窪みができたと考えられるという。

深い窪みができるまでには長い期間の風化が考えられ、それだけその窪みの元となった跡は古い頃のものだろうというのである。

また、ミシガン州の半島の先端あたりで見つかった石には丸に十字のマークのようなものが刻まれている。

そのモチーフは他の場所や組織でも使われていたため、テンプル騎士団のものと結論付けるのは難しい。

船の形が刻まれた石もある。

テンプル騎士団自身が刻んだものではないかも知れないが、もしかするとテンプル騎士団たちの船や帆などに十字が描かれているのを見て、アメリカ先住民が刻んだものかも知れない。

丸に十字の文様が刻まれた石はイリノイ州南部でも発見されている。

1982年に出土したものには、その石の他、古代エジプトの壁画にあるようなモチーフのものなどもある。

後編へ続く。



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