任天堂Nintendo Switch用ゲームの黒人キャラの人種差別問題であの作品を思い出した。
先日、こんな記事が話題になった。
Nintendo Switch用のゲームソフト『ARMS』のキャラクター、ツインテーラが黒人女性で(ここでは黒人なのに、という方が正しいかも知れない)長く伸びたブロンドのような髪を持っているのが問題になっているらしい。
現実の世界で、ちぢれた短い毛を持っているアフリカ系アメリカ人は、不当に差別されているらしいのだ。
だからゲームの世界でもそのような考えが反映されているのではないか?
ゲームの世界で現実のアフリカ系アメリカ人に多い縮れ毛の髪のキャラクターを作って、多様性を訴えるべきではないのか?
というような主張らしい。
くだんの記事では海外の反応も載せられており、さすがにイチャモンレベルの批判だというような意見がおおむねのようだ。
もちろん、そのサイトが選んだ意見しか見ていないのでフィルターがかかっている可能性はある。
個人的には、非現実のキャラクターなのだから白人も黒人も現実的でない髪型や髪の色や眼の色をしていても良いのではないかと思う。
肌の色すら非現実的なキャラはいるのだから。
また、そのような問題を知らないことも含めて、差別的感情の無い日本人を中心とした開発スタッフの純粋さを批判して良いものだろうか?とも思った。
しかし、ちょっと思うところもある。
この問題を知って、この作品を思い出した。
『殺人を無罪にする方法』という海外ドラマである。
主人公のアナリーズ・キーティングは黒人の敏腕弁護士である。
もちろん女性だ。
彼女は相当に腕の良い弁護士だ、何しろ殺人の容疑がかかっている被告の無罪を勝ち取るくらいだから。
法廷や大学での彼女はスーツを着こなし、自身に満ち溢れた、格好の良いたたずまいをしている。
ある事件をきっかけに彼女の裏の弱い部分が見えたり、過去が明らかになっていくところも見どころのドラマなのだが、そこである印象的なシーンがあった。
何話目かで彼女が寝る前に、頭に手をやる。
すると綺麗なストレートのショートヘアは実はカツラで、中からアフリカ系アメリカ人特有の髪の毛があらわになるのだ。
そのシーンを見た時にも、まさかカツラだとは思っていなかったので衝撃的だった。
しかし、くだんの記事で投げかけられている問題を踏まえると、あのシーンはもっと重要な意味を持ったものだったのだろうと思った。
能力的には全く問題ない優秀な人物でも、髪の毛がちぢれていては仕事ができそうに見えないとか、説得力がないなどという風に見られてしまい、裁判に勝てないばかりか、そもそも仕事の依頼が来ないのかも知れない。
化粧を落としているせいもあるが、縮れ毛のアナリーズは、法廷や大学の講義で立っている彼女とは、かなり印象が違う。
人種問題に関心のない自分から見ても、アフリカやアメリカでもスラムなど貧しい地域に住んでいる女性に見えた。
そこが未開、粗野、野蛮などのイメージにつながり、縮れ毛のアフリカ系アメリカ人はそのままでは仕事につけなかったり、怪しい人物として他の人なら受けない検査を受けるなど、不当な扱いを受けているのかも知れない。
実際のところわからないが、そのような理由でカツラをかぶっているアフリカ系アメリカ人は少なくないかも知れない。
追記
「wig african american」で検索すると、黒人用のカツラを販売しているサイトがたくさん出てきた。
さらにはサジェストに「wig african american human hair」や「natural hair wig african american」などが出てきた。
多くの黒人にとって、ストレートな髪はカツラによって得られるものなのだ。
全く知らなかった。
でも、考えてみたらアフリカから連れてこられて、住む場所が変わっただけで、数千年くらいの時間の経過も無しにアフリカ系の人たちがみんなサラサラヘアーになるわけないものな。
当然だったんだ。
しかし、そんなことに今回の問題提起があるまで気がつくことがなかったわけだ。
軽く頭がクラクラするくらいのショックだ。
追記終わり
そのようにして偏見に満ちたこの社会に適応し、社会的、人間的な信頼やその先にある仕事を得ているのだろう。
その上、ドラマに登場する大学の教え子のミカエラ・プラットは黒人であるが、サラサラの長い髪の持ち主だ。
黒人の中に髪の毛の格差があるのだ。
サラサラの長い髪の毛をカツラやストレートパーマ処理などで手に入れて生活することは、白人たちが作った社会に生きる黒人、特に黒人女性の現実なのだ。
そう考えると、くだんの記事にあったような指摘は、一理あると言える。
縮れ毛以外にも、髪の色も指摘されているが、金髪の黒人がいるというだけで大々的に取り上げられることを考えても、人種による固定観念や偏見は大きくて無視できないものなのだ。
黒髪の大人と似ても似つかないから人身売買か誘拐したに違いないとして、強制的に親族から引き離され、保護されたロマ族の少女の話も同じような偏見から生まれたものだ。
ギリシャで保護の金髪少女、ブルガリアのロマ夫婦が両親と判明 | ロイター
日本人でも小さい頃は金髪や赤毛で、大人になるにつれて黒髪になる人はいるから、目鼻立ちが西洋風なら事情によっては同じような目に合うかも知れない。
固定観念や偏見というものは本当に恐ろしいものだ。
権力を持つ者や、個人よりも強い集団がそのような偏った考えを持つと、一人の人間、1つの家族、1つの民族の人生を大きく変えてしまう。
全ての人がアフリカ人にルーツを持つというので有名な、Y染色体やミトコンドリアの共通点から祖先を類推するハプログループの考え方では、見た目は違っていても同じグループに属する親戚のようなものであることがわかったりして、親近感や人類の一体感を感じさせる研究、プロジェクトや、それを取り上げた番組もある。
しかしながら、結局、扱われ方を大きく左右するのは見た目である。
同じハプログループでも、中東系の男は危険人物としてマークされうるし、白人の見た目を持ったものは優位な立場を得やすい。
アメリカの黒人の多くは白人との混血であるらしいのだが、それでも黒人は相変わらず差別されている。
書いているうちに、この作品も思い出した。
ある大学教授が全然授業に出席しない学生を幽霊学生の意味合いで「スプーク」と言ったことが黒人差別であるとされ、問題になるのだが、この教授自身がアルビノか何かでたまたま白い肌で生まれた黒人であり、それをひた隠しにして生きてきたという話だ。
とにかく、ある情報を知って差別心を持ってしまうリスクを犯してでも、世の中にある差別を知っておく必要はあるのかという疑問はやはりあるが、指摘されて知ってしまったからには次回からは配慮するのもやむを得ないのかも知れないと思った。