明石家さんまが言っていた「逃げ惑う大塩平八郎」は本当にあったのか知りたい
以前、こんな記事を書いた。
明石家さんまが「さんまのまんま」で発言したので気になり、少し調べてみたのだ。
そのときは、そもそも「米騒動」という言葉ができたのは明治の頃で、江戸時代にあったのは「打ちこわし」だったこともあり、明石家さんまの記憶違いだろうという結論に達した。
しかし、先日、調べてみたらYahoo!知恵袋にこんな質問があることがわかった。
「中学生の教科書だったか逃げ惑う大塩平八郎の絵」があったというのである。
Yahoo!知恵袋で質問したのが、明石家さんまでなければ(もちろん可能性はゼロではない)、明石家さんま以外に逃げ惑う大塩平八郎を見た人間がいたことになる。
明石家さんまは「さんまのまんま」だけでなく、いろいろな番組でこの言葉を使っていて、一種の持ちネタだったようである。
http://akashiyatv2411.web.fc2.com/031117.htm
武川「1番の問題です。1688年、イギリスに起こった名誉革命。この革命はどうしてこのように呼ばれるようになったのでしょう?」
(中略)
宮迫「こ、米騒動」
さんま「逃げ惑う大塩平八郎、68ページ。いつの間にスケッチしたんやってヤツ。もうすぐ近くまで来てるねん。『今、どこにいるかわかる?』」
さんま先生、「ちょっと。やめてください。あなたは逃げ惑う大塩平八郎ですか?」
よほど、学生時代に見たという「逃げ惑う大塩平八郎」が心に残ったのだろう。
これは本当かも知れない。
それについては以下の2つの記事を見ると概略がわかる。
NHK Eテレ 小学6年生 社会科の「歴史にドキリ」で中村獅童が演じる大塩平八郎の動画を見るととてもわかりやすい。
大塩平八郎~庶民の反乱~ 歴史にドキリ [社会 小6]|NHK for School
米が不作で一般の庶民が米を手に入れにくくなった上、豪商や高利貸のような人たちが自分たちの食料を確保するという目的以上に、高く売りつけるために米を買占めていた。
それに対して有効な手を打とうとしない奉行所などに対して、元役人で以前にも悪事を告発したのにまともな沙汰がくだされなかったことに失望して職を辞し、私塾を開いていた大塩平八郎が義憤に駆られ有志を募って暴動を起こしたのが大塩平八郎の乱ということらしい。
ちなみに有志を募った時の血判状が残っているそうで、その形式は学校で習った「からかさ連判状」である。
http://www.fujitv.co.jp/odessa/archives/3e22b586d15.html
学生時代に、これを見つめながら自分だったらどこに書くか、リーダー格だと見られる位置はまずい、などと考えていたという湊かなえにとっても大塩平八郎の存在は大きかったのだろう(本当はどうか知らない。番組も見ていないし)。
私が習った時にはからかさ連判状という名前だったのだが、Wikipediaでは単に傘連判状(かされんばんじょう)となっている。
別のサイトでも調べたら、傘連判状と書いて「からかされんばんじょう」と読むらしいことがわかった。
話がそれたので大塩平八郎の乱に戻る。
上に紹介した記事によると、反乱の目的の1つには大坂の東町奉行の跡部良弼と西町奉行の堀利堅の両者を爆死させることにあったらしいが、決起直前に裏切り者が出て奉行所に届けて出てしまったためにこの計画は失敗した。
決起の時刻を早め、少ない人数で決起したが、目印とした自宅への放火で上がった火の手を見て有志の者が集まり、豪商の屋敷を襲って、奪った米や金品を町民へ配った。
最終目的地は大阪城の米蔵であり、一時、その勢力は300人ほどにまで膨らんだ平八郎一行。
当初、「旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱(1637年 - 1638年)以来、200年ぶりの合戦」ということで浮足立った奉行所の役人達は大失態を演じたらしい。
※出陣した東西の町奉行が砲声に驚いた馬から振り落とされ、こんな歌が流行った。「大阪天満の真ん中で、馬から逆さに落ちた時、こんな弱い武士見たことない、鼻紙三帖ただ捨てた」。
この時の様子が絵になっていて、見た人が勘違いをした可能性はないだろうか?
初動で失態を演じた奉行所勢も、江戸の安泰な体制で平和ボケしていたとは言え、そこは公権力を持った組織の侍たち、武器も兵数も豊富であり、私塾の弟子とにわかに参加した町人が敵う相手ではなく、乱は一日と経たずに鎮圧されてしまった。
(鎮圧はされたものの、「大塩焼け」という大火は収まるのに一晩かかり、大阪の数分の一が焼けたそうだ。庶民は米が手に入らず、飢えて苦しんでいたとは言え、多くの町人が焼きだされてしまい、露頭に迷っただろう。この反乱は正しかったのかと疑問に思うところだ)
その後、私塾の弟子など関係者は次々と捕縛されたが、大塩平八郎と息子はしばらくの間、見つからなかったらしい。
多分、奉行所中心の侍たちと戦っていた最中か、鎮圧後に追っ手から逃げていたあたりが「逃げ惑う大塩平八郎」のモチーフなのだろう。
親子はその後、潜伏先がばれてしまい、そこで親子共々爆死したということだ。
しばらくの間、見つからなかったことや死体が黒焦げだったことなどがあって、大塩平八郎生存の噂が広まり、大阪の混乱はしばらく収まらず、他の地域の暴動にも発展したらしい。
そこで拷問の末に死んだ私塾の弟子たちとともに黒焦げで身元も判別できないような大塩平八郎親子を磔にして、民衆の前に晒すことまでしている。
下記のブログでその磔の絵が掲載されていた。
消えた飛田の墓をゆく│のぶログ (THE WEBLOG WITH OSAKA DIALECT)
調べてみて、大塩平八郎の乱のことを深く知ることができて大変、勉強になった。
しかし、結局、ネットで調べた範囲では「逃げ惑う大塩平八郎」についてはわからなかった。
誰か中学校の教科書とか、決定的な証拠は持っていないのだろうか?
是非とも真相を知りたい。
おまけ 調べていたらおもしろそうなツイートがあったので紹介
大塩平八郎の乱をときメモ風にする http://t.co/oUTXjImVxC 「大塩平八郎の乱」がときめきメモリアル風なゲームだった場合のプレイ画面を考えました。ときめき平八郎。 pic.twitter.com/Sv3HDxXPrs
— ワラパッパ / ユーモア妄想メディア (@warapappa) 2015年2月20日
「大塩平八郎の乱」をスターウォーズっぽく映画化してほしい。平八郎がフォースに目覚める感じで。一応タイトルバックつくってみました。 pic.twitter.com/jYGfbKbY9D
— スエヒロ (@numrock) 2015年5月2日