久々に本物のジブリアニメを見た『かぐや姫の物語』
録画したままだった『かぐや姫の物語』を見ました。
『風立ちぬ』は見逃したのでなんとも言えませんが、それ以外で考えるとこの数年で久しぶりにジブリアニメと呼べるものを見たような気がします。
とにかく絵が綺麗
『ホーホケキョ となりの山田くん』(内容的には何故あれを作ったのか未だにわからない)で培われた、手書きのようなタッチの絵をセル画なしにデジタルで動かすというアニメーション手法が使われていて、とても綺麗な絵でした。
本当に水彩画のような、水墨画のような絵がいきいきと動くさまには感動しました。
ただ、それも1時間くらいすると慣れてきます。
人間というのは恐ろしいものですね。
それでも慣れが来る頃には内容に引きこまれていきます。
高畠勲作品は宮崎アニメと違って本職の声優でなくても良い
村での生活に慣れ始めた頃、育ての親である竹取の翁の考えで突然、都へと旅立つのです。
翁と媼は支度をしていて、かぐや姫は支度をせずに出かけるのはなんだか不自然に思えましたが、牛車に乗せるので問題なかったのですね。
村の子どもたちと別れることになる直前で印象的だったのは「ずっと捨丸兄ちゃんの手下だよ」というセリフ。
これだけ聞くとおかしなセリフにしか思えませんが、まだ自らの女性性を強く意識していない少女の無邪気な告白なのです。
都へ越すことなく山に住み続けたとしても、ずっとあの関係性が続くはずは無いのですが、子供の頃はそんな淡い幻想を抱いてしまうものです。
セリフも良かったのですが、声を演じた朝倉あきさんという女優さんの声がなんとも良かったです。
考えてみると、ジブリアニメでは珍しく最初から声とキャラクターとの間の違和感を感じませんでした。
宮崎駿さんと違って、高畠勲さんの作品は何故か声優が本嘱でない俳優さんを使っても許せてしまいます。
『おもひでぽろぽろ』では先に声による演技を録音しておいて、その声に合わせたアニメーションが後で作られるという「プレスコ」が行われています。
プレスコ - Wikipedia
今回はどうだったのかと思ったら上のリンクを見る限り、高畠勲さんの作品は『火垂るの墓』などほとんどの作品がプレスコだったのですね。
何故、違和感を感じないのかがよくわかりますね。
宮崎アニメはそれこそ純然たるアニメ作品なので、やっぱりちゃんとした声優を使って欲しいところです。
宮崎駿さんの作品はどれほど深くて大きなテーマがあってもやっぱりエンターテイメントなアニメで、子供でも楽しめるものなのでしょう。
高畠勲さんの作品はジョン・ラセターが言うようにアートなのかも知れません。
宮崎駿が高畑勲『かぐや姫』を「あれで泣くのは素人」とディス!? でも本音は…
御付きの女がかぐや姫と違った小動物的な可愛さ
作品の感想に戻ります。
都へ移ったかぐや姫のお世話係の女がなんとも言えずかわいいですね。
作品の終盤では、月から迎えに来る使者たちからかぐや姫を守るために長刀を持って待ち構えていたはずなのに、何故か子供たちと一緒に歌を歌いながら長刀を背の高い草に持ち替え、それを振り振り子どもたちの行列の先頭を歩いてたりします。
ぬいぐるみかフィギュアがあったら、かぐや姫よりも絶対御付きの女のほうを書います。
教育係の女を見て思い出したアニメ作品
教育係の女は、声を演じているのが高畑淳子さんでこちらも違和感を感じず、かぐや姫とのやり取りが自然でよかったと思います。
高畑さんの声の演技に違和感が無いのはもう一つ理由があって、以前にも声優をなさっているのです。
『雲のように風のように』は、ジブリアニメと間違っている人もいるらしい、とても良い作品です。
原作が、私が好きな作家である酒見賢一さんの『後宮小説』なのも良いところです。
というよりもこの作品で酒見賢一さんを知ったのですが。
今はkindle版があるんですね。
5人の男からの求婚とかぐや姫の罪
また、脱線してしまいました。
かぐや姫は5人の男に求婚されますが、それぞれに宝を探してくれば私は貴方の宝になりましょう、と無理難題をふっかけて求婚話を煙に巻こうとします。
2人は偽物を持ち込んでそれがバレてしまい、1人は宝は見つからなかったけれどもそれを正直に認めつつ、思いを伝え、かぐや姫の心に訴えかけるもその男の過去の不正直な行いが暴露かれてしまいます。
そこまでは良かったのですが、残る2人は、1人は船で本当に竜を探しに出かけて嵐に遭い行方不明になり、最後の1人はスズメの巣に手を伸ばしてバランスを失い、落ちて死んでしまいます。
自分の心に正直に生きようとするのは当然のことと現代の感覚では思ってしまいますが、それも或る種の我を張ることであって、それによってかぐや姫は罪を負ってしまったのです。
ずるい帝と月へ帰るきっかけ
その5人はお金をかけたり命そのものをかけたりしたわけですが、結局、1人もかぐや姫の顔すら拝むことができませんでした。
それと比べて何もしていないのに、かぐや姫に直接会うことができ、いきなり後ろから抱きすくめることまでしたのが帝です。
高貴な身分の人は随分得ですね。
とがった顎が特徴的すぎて金曜ロードSHOWで放送されたときにはツイッター上で随分盛り上がりを見せたそうですが、それはともかく。
しかし、これがきっかけでかぐや姫は自分が月から来たことを思い出し、同時に月へ帰りたいと心ならずもメッセージを送ってしまったのです。
これが月へ帰らなければならなくなる理由です。
さらに何故、月から地上へ降りてきたのかといえば、以前に同じような経験をした人の歌を通して、羽衣を身にまとえば消えてしまう記憶を超えた心残りをその人に感じさせてしまうほどの地上への魅力に魅せられてしまったかぐや姫が受けたある種の罰なのでした。
地上の男性に恋をした人魚姫が地上へ行くことを許してもらう代わりに声を失ったのと似ていますね。
他にも人間界に残ることを選んだ引換えに神通力を失った神の話もあったような気がします。
初恋の人への告白と最後の別れ
月の迎えが来る前に、故郷へ戻りそこで捨丸と出会うシーンはちょっと不要な気がしました。
特に空を飛び回るシーンは。
シーンが不要というよりも演出がちょっと気に入りませんでした。
しかし、初恋の人に思いを伝えるかぐや姫と、その時には既に妻も子もいた捨丸がかぐや姫を連れて逃げるなんて宣言する男の身勝手さを描くためには必要だったのかも知れません。
月からの迎えが来たシーンはちょっと驚きました。
月の一行の頭領はお釈迦様だったんですね。
確かに笛など楽器を演奏しているのは迦陵頻伽(かりょうびんが)っぽいですから仏教と関係があるような気もしましたが。
本当の竹取物語の原作でもそうだったのかどうかは読んでいないのでわかりませんが、となると天竺は月にあり、これでは仏の御石の鉢は見つかるはずも無かったのではないかと思いました。
『かぐや姫の物語』が原作通りなわけではないのですが。
そもそも仏の御石の鉢を見つけられなかった石作皇子のエピソードも原作とは違うようですし。
求婚話一:石作皇子と仏の御石の鉢
苦しみ、悲しみがあればこそ
かぐや姫と翁と媼が別れを悲しんでいるシーンでは、月の民の女が、月へ帰ればそのような思いに煩わされることもなく、心の穢れも無くなると羽衣をかけようとします。
それに対して、苦しみも悲しみといった感情もひっくるめて生きることは決して悪ではないというかぐや姫の反論は、感情が揺れ動くことが無くなることで心の平安を得る、いわゆる解脱することを最善とする仏教に対する強い批判のようにも思えました。
言い終わるか終わらないかのうちに羽衣を掛けられてしまって記憶が消えてしまうのですが・・・
月や宇宙から見た地球を描くのはちょっと違和感がありました。
世界観がやっぱり壊れますよね。
一気に現代というか現実に引き戻されるような感覚になってしまいます。
しかし、映像にするからには仕方が無いのかも知れません。
できれば月と地球という対比をさせないで、月と地上、月とこの世という対比ができるような表現をして欲しかったと思います。
感動するけれども、見終わった後、気重さが残らない高畠作品
それでも全体として、とても良い作品でした。
高畠勲さんの作品はほとんどの場合、宮崎駿さんのもののように見た後に心に重いものが残らないですね。
宮崎アニメの場合、あれはあれで良いのですが、見終わった後数時間は気が抜けたような何も手につかない状態になります。
対して高畠勲さんの作品は、テーマとしては深いのでしょうが、軽くてさらっとしているんですよね。
『ホーホケキョ となりの山田くん』の良さがわかるようにならないと高畠勲作品の本当の良さはわからないのかも知れませんが(笑)。
その高畠勲さんが良い作品だと言ったという『風立ちぬ』も見る機会があれば見たいと思います。
ほんの少しだけ見たのですが、声に違和感がありすぎて話に入っていけるかどうか不安になりましたが・・・。
とにかく『かぐや姫の物語』、見たことがない人は絶対に見るべきです。おすすめです。
久しぶりに満足感が味わえていい気分になりました。