批評家という職業は何故、罪なのか?
先日、ティク・ナット・ハンを紹介した番組を見て、マインドフルネスについての話は既にこのブログに書いた。
そういえば、番組の中で妻を亡くしたあと、ティク・ナット・ハンの説く仏教の教えに救われたという批評家の話が紹介された。
彼がどうこうということではないが、考えてみると批評家という商売は罪なものだなと思ったのを思い出した。
他人のことを批判して飯を食べているからではない。
批評というのは仏教が苦しみの根本と考えている分別だからだ。
何かを良い、何かを悪いと評価する。
良いものは常に自分のそばにあってほしい。
悪いものはすぐにでも自分から遠ざけたい。
と考える。
多くの場合、その望みは叶わないから苦しむ。
場合によっては、運や財力、権力によってそれを実現できる事もあるだろう。
そういった人も、それが慢心や傲りとなってその人を貶めるかも知れない。
また、何か分かりやすい反動がなくても、欲望は満足を知らず、更に高く難しいものを望んだり、新たな別のものを欲して際限なく充たされぬ思いに苦しむことになる。
ティク・ナット・ハンはそれを諌める仏の教えをアメリカやフランスを中心にして世界各地で説いてきた人だそうだ。
この世の多くのことを望み通りにできる人でも、生老病死とそれに伴う愛する人との別れの苦しみからは逃れられない。
望みもしないのにこの世という場所へ投げ出され、何時までも若く健康でありたいと願ってもそれは叶わず、ようやくこの世に居場所を見つけ、愛する人々と一緒に過ごしたいと思っても、その愛する誰かも、そして自分もこの世を去らねばならなくなる。
その苦しみから解放されるためには、時々刻々変わる感情や気分、体の調子や自分が置かれている状況、持っているモノと持っていないモノ、他人との関係、自己と他の区別そのもの、生と死などなどを区別しないこと。
自分と他人の区別が無ければ、死に別れた、肉体はこの世に既に無い人も常に自分と共にある。
仏教ではそう説いている。
凡人にはどれもできることでは無い。
しかし、できる事だけでいいからそれを絶えず続けることが大事なのだそうだ。
自分の持っていない苦しみは、誰かが代わりに背負ってくれている。
自分が抱えている苦しみは誰かの代わりに背負っているもの。
今日の食事は自分だけでなく、今日食べることができない誰かのものでもある。
今日の涙は誰かの代わりに、誰かの分まで流すものかも知れない。
そうして日々の行いの一つ一つをその時々「今」を感じながら生活することを番組でも紹介していたと思う。
自分はどれほど出来るのかなと思う。
まずは呼吸に注意を向けることから。