『この世界の片隅に』を見た。静かながらも見るものの心をざわつかせる、戦時下の日常を切り取った物語。
『この世界の片隅に』を見た。
Gyao!でYahoo!プレミアム会員向けにオンライン特別試写会というのを行っていたのだ。
海外でも公開されたらしい。
良い話だったが、ちょっとさらっとしすぎていて「感動した!」となるような作品ではなかった。
冒頭は主人公のすずの子供の頃が描かれ、年頃になって、相手は昔、見かけたことはあるというが、すずには憶えがない、ほぼ会ったこともない男性と見合いをして結婚する。
Wikipedia情報では、最初のばけものにさらわれたときに一緒にかごの中にいたのが夫の周作だったらしい。
原作知らなければわからないな。
絵柄のせいで成長した周作のおもかげがあるなどといったことがわかるわけでもないし。
慣れない町と嫁ぎ先の家での軽やかな奮闘や、出戻りの義理の姉との同居で、10円くらいかどうかわからないがハゲを作りつつも、作品の1時間あたりまではおおむね平和である。
これも絵柄のせいか、私の注意不足のせいか、実家に一時帰るシーンが唐突に出てきた時には、家族のキャラの違いがわからず、実家に帰ったのだと気が付かなかった。
また、原作では重要な役割であるキャラらしい、遊廓のリンは、すずが道に迷ったことがきっかけでほんの少しだけ登場する。
遊廓の存在を紹介するといった程度のシーンである。
しかし、彼女の生い立ちは作品本編が終わったあとのクラウドファンディング出資者の名前が列挙されるエンドロールで描かれている。
もしかして、親戚のうちで赤いところのなくなったスイカの皮にかじりついていたのはリンなのかな?
wikipediaの情報によると本当はリンとすずのエピソードも描かれる予定だったそうである。
作品の前半は上のようなすず個人の生活とそこへ徐々に忍び寄る戦争の影、主に配給の様子や隣組のような地域の戦争に関わる取り組みが描かれている。
上のリンク先の記事で紹介されている、海外の批評に「129分は、アニメ映画には長すぎる。ビジュアルがすかすかで、話もそんなにない映画なら、なおさらだ。半分も見たころには、観客は早く戦争が始まってくれないかという矛盾した思いをもつかもしれない」というものがあったらしいが、確かにそう思う人がいてもおかしくないと思った。
日常に徐々に戦争というものが浸透していく様子は、日本の戦争に対する取り組みを知らなければピンとこないだろう。
当時を知っている人はそこに「あったあった」と感慨があるかも知れないが、戦争を知らない世代にとってはアメリカ人同様、ちょっとじれる気分になるかも知れない。
また激化する戦況を後半に急いで描いたためか、爆発に巻き込まれて、姪の晴美が死に、自身も右手を失うなど大怪我を負ったあとのシーンもかなりさらりと描かれている。
利き手である右手を失い、絵も描けなくなったのにである。
色々なものをあきらめ、受け入れるという当時の日本人像なのかも知れないがちょっと違和感があった。
さらにはその姿を見た夫の周作のセリフにもほとんど驚きや取り乱す様子がない。
「描きたかったのはそこじゃない」ということで他に描きたいものがたくさんあった中でさらっと流されたのかも知れないけれども、あまりにも淡々としていて不自然だった。
日本人はある程度知っているであろう、当時の日本の住空間や、日本側から見た戦争の予備知識があることが前提のエピソードがほとんどだと思う。
予備知識を綺麗な映像で確認するという印象だった。
配給や防空壕はわかるとして、そこで買ってきたと大っぴらにはできないものの、闇とは言えないくらい堂々と行われている闇市というアンダーグラウンドなマーケットのシーンは海外の人には理解できただろうか?
原爆によって、広島で母は爆死したのは理解できるとして、爆死は免れたものの、放射能で被爆して死んだ父や、原爆症で遠くない未来の死が暗示されている、すずの妹すみの腕が描かれているシーンはどうだろう?
崇高な目的のための戦争で日本に住む国民みんながそれに協力しなければならないということで、自分たちを納得させ、色々な不便や理不尽を受け入れてきたのは何だったのか?という怒りを抑えきれなかった、玉音放送を聞いた後のすずの様子を、海外メディアの一部は「アメリカ人だったら、ほっとした、あるいはあきらめた、悲しい、という反応をするだろうが、すずは、まるで自分ひとりでも米軍に立ち向かってやるとでもいうように激怒する 。当時、最後のひとりになっても戦う人々として知られ、恐れられた日本人の性質が垣間見える、興味深いシーンだ」(同じく上のリンク記事から引用)と感じたらしいが、そういうことではなかったと思う。
慣れない環境で自分の居場所を作っていく中で、世界が開け、世の中というものが見えてくることは大人になる過程であるのかも知れないが、その生活に戦争が絡んでいたがために知りたくもないことがわかるようになってしまった。
すずの「何も考えん、ぼーっとしたウチのまま死にたかった」という独白はそういうことに対する思いからではなかったか?
その見方が正しいかどうかわからない。
いずれにしろ、アメリカ人を始めとする他国の人たちにはわからないことも多かったのではないだろうか?
火垂るの墓を見て、カーテンにくるまって泣いてたイギリス人と、ソファー殴りながら号泣してたアメリカ人と、それを楽しげに見てたフランス人(こいつが見せた)を思い出した、イギリス人は「ホタル」という単語で思い出し泣き出来るレベルでトラウマらしい
— さの@ゆた改め【4-8(よのや)】 (@sanoyutaro) 2011年8月15日
こういう話もあるから分かる人には分かるのかも知れないが、特にアメリカ人は翻訳本があまり出版されないとか海外の作品を読まないとか言われているので、自分たちとは異なる文化を自分たちの生活に置き換えて想像するということに慣れていないのではないかと思うがどうなのだろうか?
終戦後、海外からの穀物その他の食品に頼らざるを得ないから戦争に負けたのではないかという、すずだったが、戦後の配給で米軍の残飯を食べる。
紙屑が入っていることでどんな作り方をしているか?何が入っているか窺い知れるその残飯ですら、普段食べているものよりも断然うまいというシーンに、最初から勝てない戦争だったという気分になった。
大したことがないシーンだけど、衝撃的なシーンでもあった。
実家の家族はほとんど死んでしまったことはあるが、すずの嫁ぎ先の家族は晴美以外は生き残った。
そういう意味ではすずは幸せな方なのかも知れないと思った。
ただ、家族も死んだくらいなので、すずを知る者の多くが死んでしまい、帰る故郷が無くなったすずに、与えられた場所で生きていかなければならないという覚悟をせまる現実でもあると思った。
作品の最後に、母親と死に別れた小さな女の子を、すずと周作は家に連れて帰る。
晴美のと同じくらいの歳のその女の子をすず達一家は自然に家族として受け入れて映画は終わる。
エンドロールで小綺麗になって笑顔を魅せるその少女の絵が流れて終わるところに、終戦後の新しい生活と希望が見えた。
強い感動例えば泣けるような話では無いものの、見た後に胸がさわさわと落ち着かなくなる作品だ。
数回、見直すとまた新しい側面が見えるのだろう。
Gyao!では視聴する権利を得るエントリーは8/15まで、その後の視聴は8/30まで可能である。
あと、エンドロールに韓国人らしき名前が少なからずあった。
以前、こんなTogetter記事を見た。
実際、アニメの現場は韓国の人たち無しには成り立たないんだなと思った。
こういう日本人視点の戦争物語を描くことに関わった韓国の人はどういう気持ちなのだろうかと思った。
原作で描かれている終戦直後にある家に掲げられた太極旗を見て、すずが泣くというシーンが無くなったのには、韓国人アニメーターへの配慮があったのかも知れない。
原作も読んだほうが良いんだろうと思う。
Yahoo!映画のレビューを見た。
高評価のものよりも低評価のものについて、それに対する答えを探すようにして見たほうが有意義であるような気がした。