死にたい気分が先にあって死ぬことを考えるのか、その逆か
今日、頭の重さが出てきて少し眠りました。
目が覚めた時、不意に川島なお美さんの訃報が頭に浮かびました。
結局、人間はこの世に生まれて死んでいくわけですが、どのくらいの人が「死」そのものを異常視というか、特別なことと考えているのか?と考えてしまいました。
痛ましいと考えるのは死があってはならないと考えているところがあるからだと思います。
ある程度の年齢になると、別れを惜しむような悼み方をするようになるのだろうか?
何故なのかそんな風なことを考えてしまいました。
実際はもっとぼんやりしたものだったのですが。
なんだか、結局は皆、この世を去っていくわけで、それが早いか遅いかには意味がないのではないか?
自分自身ももうそろそろお別れしても良いのではないだろうか?
そんな思いが強い状態がしばらく続きました。
夕方くらいになると、それがいつの間にか治まってきました。
その前後には何もきっかけは無いのです。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」というジェームズ・ランゲ説というのがあるらしいのですが、確かにそういうところはあるのでしょうね。
そもそも、死というものが特別ではなく、人は望まないのにこの世に投げ出され、やはり望まないのにこの世を去らなければならない、という考えは仏教で説かれている真理です。
このことを実感として感じられるようになることは、この世のしがらみ、ある種の苦からの開放を意味するのです。
同じ諦観が一方では苦からの開放に繋がるのに、また一方では生に対する絶望につながるというのは、理屈以前に何らかの気分があって、その違いなのではないでしょうか?
夕方にかけて調子が上向いてくるというのは昔から変わらないですね。
気分が明るくなるわけでも、霧が晴れたようになるわけでもないのですが。
数ヶ月に一度くらいそういう日があります。
これも全くきっかけがわかりません。
私の病気は本当は一体何なのでしょうね。
一度、統合失調症と診断されると、基本的にはそれをベースに全てを説明しようとされるので、夕方にかけて調子が良くなるとしてもそれはうつ病の身体的な症状とは考えられずに、統合失調症で抑うつを伴った状態と判断されるのでしょうね。