引きこもりはディオゲネスかツァラトゥストラか
こんな話があるそうです。
日本で社会問題になっている、ひきこもりについて海外で公演(?)した所、海外の研究者などから「それはディオゲネス症候群ではないか?」と指摘されたという話です。
基本的には基本的にはゴミを貯めこむ病気のことを指しているようです。
ディオゲネスに例えられたのは、ゴミが部屋に散乱していても自分がお風呂に入っていなくて不潔でも気にならないという無関心さからということからとなっています。
しかし、ゴミを積極的に拾ってきて部屋へ貯め込むタイプと、気力が無いとか無関心であるために片付けができないタイプがあるそうです。
本来のディオゲネスは、家も社会的地位も他人の評価にも感心がないので何も持っていなかったようです。
記事の日本人研究者は、この本来のディオゲネスの世界市民を自認する態度と、他人の言動を気にする場合が多いひきこもりとの違いに注目して、ディオゲネス症候群とひきこもりを同一視するべきでないと言っています。
しかし、ゴミを貯めこまないディオゲネスとは根本的に異なる人をディオゲネスに例えた病気にしていることを考えると、こういうロジックでひきこもりとの関係を否定するのは良くないような気がします。
病気に対する治療法や対応がその病気にも効果があるなら類似性を疑っても良いのではないでしょうか?
PTSDは以前は、死に直面するほどの恐怖体験をしたあとに起こる精神的な症状を持つ病気とされてきましたが、同じ治療法や治療方針が、いじめや虐待を経験したことで問題を抱えている人たちにも有効であることがわかり、PTSDと考える範囲が広まったそうです。
ディオゲネス症候群とひきこもりについても、両者の類似点に注目し、それに対する対応で効果があるなら、ひきこもりをディオゲネス症候群と言っても良いかも知れませんよ。
名前がつくことで新しい偏見が出来上がることは気になりますが・・・。
一方で、ひきこもり研究の第一人者である斎藤環氏は、ひきこもりを山に篭ったツァラトゥストラに例えて、山の中である種の悟りを開き究極超人になることで、ひきこもりもその状態を脱することができるのではないか?と指摘しています。
これは別の言い方をすれば、ひきこもりもディオゲネスのように世界市民になれば、その状態から開放されるのではないか?ということになるのではないでしょうか?
この世の中から開放されたディオゲネスやツァラトゥストラの様が、世の中の大半の人間と異なり、その社会から浮き上がっているために、似たような状況にある人をその2人と例えているのに、そのような人々の目指すゴールが2人の様になることである、というのは不思議というか、皮肉というか・・・。
蛇足ですが、ディオゲネスと聞いて私が思い出したのはディオゲネス・クラブです。
本が読めるようになれたらシャーロック・ホームズシリーズ読破するのに。