『菊と刀』の嘘
以前、『菊と刀』を読んだときの印象は、分かるところもあるが分からないところもあるなぁ、というものでした。
全体としては公平を装っているようでやっぱり日本人の悪さを指摘し、対照的に欧米人の誠実さや正当性を強調したいんだなとは思ってましたが、それは戦後もずっとあったもので取り立てて怒りを感じるというものでもありませんでした。
どちらかというと、ここで語られている日本人像は現代人にはもうわからないんじゃないか?という思いを抱きました。
面倒を見てくれていた神父夫妻にアメリカで画家として暮らしたいと告白し、夫妻から笑われた青年が恥辱を感じて夜中に荷物をまとめて出ていく、夫妻に何も告げずに。 この感覚を容易に理解できる人は現代では神経症やうつ病になってしまうでしょう。
うつ病が増えたのは、以前なら躁病を疑われたような人たちまでがテレビなどで「おもしろい人間」として認められるようになり、社会全体としてもそのようなハメをはずしたような生き方をするようになってきた結果、これまでであればごくごく正常の範囲であった気質の人々が相対的に「暗い」と認識されるようになり、自身も気に病むようになったせいではないか? そんなふうに分析する精神科医の見解を本で読んだことがあります。
どちらかというとそういった現代と戦前戦中の日本人の違いが気になっていました。 現代の日本人がどうかというところはいろいろな考えがあるでしょうが、当時の日本人というものの見方については『菊と刀』に語られている日本人論を指示する人は現在でも少なくないようです。
僕もどちらかというとそういう立場でした。ようはそのような気質を持つ日本人を悪いといい、自分たち欧米人は正しいという書き口が気に入らなかっただけで。
先日、読んだ『「恥の文化」という神話』という本は、『菊と刀』はそもそも一般向けに書き直されたとはいいながらも一応文化人類学の論文や学術書として位置づけられているが、それは大きな間違いで政治思想書の類だということ、 欧米人が自らの行いを正当化し、罪や後ろめたさを感じないためのプロパガンダに使われただけであり、著者のルース・ベネディクト自身もそれを意図してこれを書いていた、ということを明らかにしていきます。
この本の中で紹介されている「内なる外国―『菊と刀』再考」の著者は、『菊と刀』を読むと自分がアメリカ人であることを肯定的に感じられ気分が良くなると思いながらも、日本人を理解するために最適だと思われていたこの本が日本人を理解するためのもっとも大きな障害になっていたことにずいぶんと後になってから気がついたといっているようです。
ルース・ベネディクトは、大学での地位の危うさや、共産主義的な考えを弾圧する人々の攻撃の対象になりかけていたことといった、彼女の個人的な問題を解決するために、もともと持っていた考えを翻し、文化人類学の考えをも否定し、人種主義者に転向してしまった。 彼女は元々批判していた人種主義を肯定するような考えを、彼女の超一流の言葉選びや論理のすり替えによって、あたかもこれまでと一貫して矛盾のない文化人類学の見地から得た結果として日本人を論じた、論じたように装って書かれたのが『菊と刀』である、というのが『「恥の文化」という神話』の著者長野晃子氏の主張していたことかと思います。
海外の識者の中には『菊と刀』は『ガリバー旅行記』などの政治風刺、社会批判の類の本であるとまで言っている人までいるらしいのですが、日本人の中には今だにこの本を海外で書かれた日本人論の代表として崇め奉り、そこで作られた「恥の文化」を日本人論を語る上で欠かせない概念である、つまりその考え方が正しいという捉え方がされているといいます。
僕もこれを読むまでは「恥の文化」という考え方自体はそれなりに正しいのではないかと思っていました。
しかし、この本で言及されている、ルース・ベネディクトの過去の論文等の文献に書かれてあったことのほうが冷静で公平で、至極当然な見方であったとすると、 日本人は二つの相反する価値観を持っているとか、誰も見ていないところでは平気で悪さをしてしまうとか、汚名をそそぐといった報復が当たり前であるとかいったことが日本人全体の生来の特質であるかのような『菊と刀』の主張は必ずしも正しくはなく、 むしろ著者のルース・ベネディクトの学者としての宗旨変えとも思える不誠実さや、一貫性の無さがあり、彼女の母国であるアメリカにも同様の特質があるように感じました。