感動ポルノという言葉自体が感動ポルノが指すものと同じ構造を持っていませんか?
感動ポルノが物語の質を落とす理由 - はてこはときどき外に出る
感動ポルノという言葉を初めて知ったので、定義がわからずピンと来なかった
2015/10/03 03:46
初めて知りました。
原作レイプみたいなものですか?
と思って調べてみました。
3年位前から使われ始めたもので、冒頭のブログでも紹介された身体障害を持っている方のTEDでの公演・動画がきっかけで広く知られるようになったようです。
人々(主に男性が)性的な欲求を満たしたいためだけに、対象となる人(主に女性)の人格を大きく取り去ってある部分(この場合、性的な面)だけを強調したものが通常のポルノだということなのでしょう。
それと似たような形で、健常者の感動や共感を得るために、対象となる障害者の不自由さと、それを抱えながら上回る努力、過剰なまでの道徳観のようなものをもった生き方を強調した話や映画・ドラマ等の作品を感動ポルノと呼ぶのでしょう。
伝えたいことはわかります。
健常者にだって前向きな人間、後ろ向きな人間、明るい人、暗い人、物怖じしない人、人見知りな人がいます。
真面目な人、不真面目な人がいます。
一人の人間の中にも同じような要素が入り混じっているはずで、その時々の状況で落ち込んだり、変に舞い上がったり、根拠の無い自信を頼りに行動したりするはずです。
何しろ、昨今では精神的な強さを作るにはこの根拠のない自信が必要だという話もあったりしますよね。
自己肯定感の醸成が大事だと言われます。
しかし、同じくTEDの公演で指摘されているように、現代においてはサイコパスに近いくらいの考え方をしている方が社会的に成功しやすいという指摘があるくらいです。
自分を取り巻く現状にそぐわないくらいの自信が必要だと言っているようなものだと私は感じます。
サイコパスの話は別にしても、健常者に比べてハンディキャップがある人間はこうあるべき、という過剰な期待や要求があるということですね。
感動を得たいがためのフィルターで何でも傷害と結び付けて、解釈することで称賛される人すら居心地が悪くなるような人間像が作られ、他の障害者はその非現実的な理想像を求められるという訳なのでしょう。
その割に、健常者は成功するためにちょっと世の中の裏をかいたり出し抜いたり、他人に共感を感じないくらいになったほうが良いというわけです。
現実がそうであるということもありますし、メンタルブロックを外すなどといった形でそれを婉曲に勧めていることもありますよね。
それは置いておくとして、「感動ポルノ」という言葉です。
どうも「原作レイプ」と違って直感的に理解ができませんでした。
原作レイプも良い言葉だとは思いませんが。
何だか、ポルノという言葉を使うことでかえって理解しづらい考え方になっているような気がします。
そういう誤解や別の関係のない意味合いをこの言葉を聞いた人が受け取るかも知れないとわかっていながら、食いつきの良いであろうことを理由に「感動ポルノ」という言葉をあえて作り出し、使っているのではないですか?
だとしたら、それは感動ポルノと呼ばれる作品を作っている人たちの意図とそう変わりませんよね?
お金を目的としているか、障害者の地位向上を目的としているかは関係ありません。
どちらも健常者に注目されたいのでしょう。
仮に障害者への理解を広めたいという理由で感動ポルノ話を作り広める人と、それを感動ポルノだ!と批判する人とが同じような手法を使い合っているのは不思議なことです。
センセーショナルでなければ注目されないから、誤解や偏見を生むのもやむを得ないというのでは変わりませんしね。
理解を広めたいとしても、それでは決して理解を深められませんよと指摘するのならともかく、「感動ポルノ」という過激な言葉を使って非難するようになれば、健常者の人たちに理解してもらおうと活動している人たちの協力を得られなくなります。
そして、結局は健常者の理解も進まなくなるでしょう。
注意しなくてはいけないのは、感動する障害者の話を「感動ポルノ」と批判するのが、障害者の全てではないということです。
普通の人ができることが、障害や疾患を持った人にはこれだけできないということが強調されなければ、そういった問題を抱えている人が日々、生活するだけで十分に頑張って生きることに踏みとどまっていることがわからない、という場合もあるでしょう。
うつの人に頑張ってと言ってはいけないということ、彼らが決して怠けているのではないということを理解してもらうために、それが必要だったというなら、感動ポルノと呼ばれるものにも一考の価値はあるわけです。
私は身体障害者の「私達は体にはハンディキャップがあるけれど、中身は健常者と同じ」と言っているかのような、福祉はこうあるべき論には賛同できません。
「同情するな」論も主に身体障害者が言い始めたのではないでしょうか?
「憫れみ、哀れみ」はいらないかも知れませんが、「同情」を拒否して良いのですか?
でも「共感」はしてほしいのですか?
「理解」しようとするときに、相手と同じ気持ちになろうとするのは「同情」ではないのですか?
感動ポルノと同じように、(一部の)物言う身体障害者は、その人たちの障害者像がやっぱり偏っていて、彼らが理想とする障害者を他の障害者に押し付けるものです。
物言うを障害者を見た健常者が、こういう障害者なら受け入れられると思うようならそれもやっぱり問題でしょう。
世の中が今以上に過剰に視力や色認識を要求していたら、弱視や色覚異常の人は生きていけません。
かつてそんな時代があったと言われてますよね。
少し色がわからないくらいで事務関係の仕事ができないとも思えませんが、様々な仕事で困難があって、病気を隠していた人もいたそうですね。
悲しいかな、人の気持ちがわからない人の中にも脳にそのような障害があり、この世の中は他人の気持ちを推し量る能力がかなりの程度強く求められるのです。
以前、子供の頃から色々後ろ暗いことをしてきた男の、未成年なのに酒を飲ませた女性に対してその後ろ暗い行為の告白をしたという話が話題になりました。
彼などはグッドルッキングで許されてきていただけで、本当に人の痛みがわかっていないところがあるなと思いました。
後ろ暗い告白を、いけない方法でしました、という告白をネットに書き込むあたり、結構な精神的な問題がありそうです。
でも、彼なども世の中の評価基準が異なればどうなっていたかわかりません。
彼のために迷惑を被った人にはたまったものではありませんし、許されるべきだとも思いませんが、彼の問題が脳にあるのだとしたら、彼の障害はどの程度認められるべきなのか?と考えてしまいます。
少なくとも、この社会では認められない障害なんだな、かわいそうだなという思いで受け止めても良さそうな気がします。
彼の場合、他から矯正されるきっかけがないので、そのまま社会で許されて同じような過ちを繰り返しそうですが。
社会的な成功者のサイコパス的傾向を考えると、彼は案外成功者になるかも知れません。
社会的な地位もプラスされた分、同じような行為を繰り返すのには都合が良くなるわけで、まずいといえばまずいですよね。
彼みたいなものの考え方が脳の問題だとすると、これはあの時の騒動くらい批判されるべきものだったのか、また年齢によって許されるとか許されないとか判断されるべきものなのだろうか?と考えてしまいます。
また、彼の行動のうち、明らかな犯罪行為はともかく、それ以外の性的嗜好などが勝手に解釈され、批判の材料にされてしまうところを見ると、何か人間のあるべき姿が求められているような気がします。
彼の問題行動が精神的なものであり、それが脳に起因するものであれば、求められている何かは障害者に対しても求められるものです。
実際、精神的なものも脳の物理的、機能的な障害の側面もあるし、身体障害も含めて障害と健常の間にはグラデーションがありますよね。
高校生の時の、元カノの拒食症のきっかけを作りながら、拒食症が改善するまでやさしく接してみて、また他の男と付き合うことになったら嫌だからといって、交際を断ってみたりするのは、犯罪ですか?
かなり歪んではいますが、これが犯罪だとすると、一方が浮気したために、もう一方が病気になるくらいショックを受けたら、彼と同じように猛烈に非難されないと行けないと思いますが、そんな例は山程ありますよね。
何故、あそこまで吊るしあげられたのか、正直ちょっとわかりません。
ブログ記事が書かれたタイミングの問題だったでしょうか?
だとしたら、取り上げる方も十分歪んでいますよね。
いつもの通り、取り留めが無くなりましたが、結局の所、お互い様なんでしょうね。
健常者がある障害者像を求め、押し付けたがる気持ちとその手法。
障害者がそれを批判するやり方。
身障者が都合よく障害者の代表としてつくり上げる障害者像。
みんなどこか偏っています。
さらにとりとめのない話をしますが、上の黒歴史告白の男性の話に関して、こんなブログ記事もありました。
エンパワメントとは全能感をあおることではない
西尾和美はアダルト・チルドレンと癒しの 中で、父親からの筆舌につくしがたい性暴力を生き抜いた女性の経験をあげている。彼女はカウンセリングをかさねて無力感と罪悪感から立ち直り、正当な怒り を覚えるようになる。その過程で「父親に会いにいって直接糾弾したい」と息巻きはじめる。西尾は彼女が回復の過程で我を忘れ、ファンタジーを描き始めたこ とをいさめる。彼女はまだそれに耐えうる状態ではないと西尾は判断した。
一方で、『毒になる親』という本では、相手に悔い改めてもらう目的ではなく、自分が立ち直るために、親に立ち向かえと説いています。
なんだか、「感動ポルノ」というセンセーショナルな言葉を使ってある作品群を非難する障害者も、罪の告白を不適切にしてみたという男性の記事を批判する人たちも、相手に罪を認識して改めてもらう目的で、声を上げているのではないような気もします。
何かに対して、自分の考えを表明することが、自分を立ち直らせ勇気づけることにつながるからなのではないでしょうか?
だとしたらやっぱりお互い様ですね。
自分もこんなことをブログに書きつつも、世の中に起きている事柄について、もう少し冷めた目で見たほうが良いのかなとも思えてきます。
もしかすると全く逆で、お互い様であることは踏まえつつも、一つ一つの事柄に全力で批判なり賛同なりすることこそが重要なのかも知れません。
孔子もこう言っています。
[白文]3.子曰、唯仁者能好人、能悪人。
[書き下し文]子曰く、唯(ただ)仁者能く(よく)人を好み、能く人を悪む(にくむ)。
[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『仁の徳を体得した仁者だけが、人を真に愛し、人を真に憎むことができる。』
論語を読むと、「かくあるべし」が強くなって、生きるのが辛くなる人のほうが多いと思いますが、一度は読んでみると良いと思います。
私も本を持っているので調子が良くなったらまた読みたいです。
今日はこれで終わります。