当事者意識のない人間とは?
この前見た『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』のリスベットは映画の最後あたりに、殺人犯について、彼の生い立ちに問題があっても道を決めるのは自分だ、と言って犯人を批判していました。
しかし、そんな自分はひどい父親に育てられ、結果、その父に油をかけて放火し殺していたという過去を持っているのです。
そのことで彼女は財産を悪徳後見人に管理されることになり、苦しむ破目になるのですが。
そのことを引き受けて生きているということも当事者意識があるとも言えます。
ただ、同時に不幸な生い立ちが元で、人を支配下に置く生き方を覚えてしまい、犯罪が発覚するまでその殺人犯としての生き方を貫き通すのも同じことです。
ひどい環境の中で生きてきたことで、生き方が多くの人と異なってしまった2人ですが、少なくとも2人とも自分の人生を自分で選択して歩んできたとも言えます。
当然、生い立ちによって自由にならない人生を生かされてきたとも言えます。
そのうち、少なくとも1人は相手を自分で道を選ばなかった人間、当事者意識のない人間だと批判しているのです。
ほとんどの人からすれば同じ類いに人間と思われる2人の中でも互いの認識は異なるというわけです。
フィクションの話ではありますが、当事者意識があるかどうか誰が判断するのか少し気になってきます。
自分ではどうにも出来なかった生い立ちに縛られて生きている者同士(少なくとも一方)が、自分は自分で人生を決定しているし、相手はそれをしていないと言っているとしたら、これはどう考えたら良いのでしょうか?
結局の所、それぞれの立場で相手を評価しているだけなのかも知れません。
誰かを当事者意識がないと判断している人は、その人自身が本当に当事者意識があると言えるかどうかもわかりません。
概ね現在の人生がうまく行っていることを根拠にしているだけで、そのように相手を判断しがちな人は、生い立ちによって縛られたものの考え方をしている人かも知れません。
考え方が違うことで、自分が迷惑を被ったということを別の言い方で言っているだけなのかも知れません。
ブラック企業の経営者に代表されるような人は、当事者意識がある人間だと自分を認識しているでしょうが、その結果、従業員が自分の人生を自分で決める権利を奪っているわけです。
それに対して声を上げた従業員やユニオンの人たちは当事者意識があるとも言えますが、経営者側からすれば、彼らは権利ばかり主張する当事者意識を持って人生を生きていない人たちと批判するでしょう。
国・政治家と、原発や安保デモの人たちとの間でも同じことが言えるのでしょう。
さらに少し、変な話になりますが、上の例のような周りの人の意見に耳を傾けず、また周囲の人間を自分の意のままに操ろうとするタイプの人たちは、体育会系であることが多いとは思いませんか?
また、先日もありましたが、ボクサーなどの格闘家による暴行障害事件は定期的に起きます。
定期的に起こり、その程度がひどい為に格闘技を習っている人の暴行障害の場合には罪が重くなるようになっているわけです。
スポーツはもしかするとそのような人間を作り上げてしまうのかも知れません。
スポーツが粗野で横暴な人間を矯正更正できるとは限らないのではないですか?
確かに自己責任で横暴に現状を変えようとする当事者意識はある人間ができあがっているのかも知れませんが。
彼らはスポーツに縛られた人生を生きているかも知れませんよ。
当事者意識のあるなしの判断が立場によって異なり、力のある方の判断が正しいと判断される。
結局は強者による選民思想みたいなものだな、と感じてしまいます。
各々の発言がどうこうというよりもスポーツ万能主義と上のようなものとの関係に、私は引っ掛かりを感じているのだと思います。