こうして「日本語」は生まれた。歴史秘話ヒストリア「日本人なのに通じナイ!? 明治標準語ことはじめ」
NHK 歴史秘話ヒストリア「日本人なのに通じナイ!? 明治標準語ことはじめ」を見た。
大政奉還が行われ、江戸から明治へ変わった日本では各地の郷土言葉、方言が原因で日本人同士でも意思疎通ができないという問題への対処が課題となっていた。
番組の中では東京だと思われる町で地元の人間と思われる人力車を引く車夫と東北から来た者、そして二人のトラブルに対処しようとする薩摩出身の憲兵、そして京都から来た公家の会話が例として紹介されていた。
日比谷だか渋谷だか分からない発音で話す東北の人。
心が広いという意味で「太か(太い)」という言葉を使う薩摩、鹿児島の憲兵。
自分のことを「まろ」と言い、お茶を「おぶ」という京都の公家。
同じ日本人なのにイントネーションだけでなく、単語や言い回し、発音が全く異なり、会話が成立しないのである。
もう一つの例として列車の中での出来事もあった。
仙台出身の女性は、おやつを「こじはん」、間食を「こびり」などと言い、失礼なことしたというような意味で「かわいくねぇことした」と言うのである。
場合によっては、学校で勉強をした教師などであれば英語の方が理解できたというのである。
各地の
江戸の話だが、『おーい竜馬』という漫画で剣術修行のために江戸へ出てきた竜馬が道を尋ねるのに「げにまっこと、すまんけど」という言葉を使い、通じなかったというシーンがあったのを思い出した。
「すまんけど」は分かるとして「まっこと」は「本当に」という意味だろう。
それをさらに強調する言葉として「げに」という単語が土佐弁にあるようだ。
これは通じないだろうと思う。
江戸時代には300もの藩に分かれており、藩の数だけあったわけではないにせよ、かなり数のお国言葉が存在していたようだ。
いわゆるお国言葉は昔からあるわけで、何故、明治になってから問題になったのだろうと思ったのだが、江戸時代には許可がなければ、藩を出ることはできず、一般の人が藩の外で別の藩の人間とコミュニケーションをとることはまずなかったのだろう。
その上、身分や仕事、性別などでも使う言葉が異なっていたらしい。
今でも漁師の人たちが使うちょっと荒い言葉を「浜言葉」などというが、そんなものが多数あったのだろう。
明治以降で言う軍に当たるものやその他の組織も藩ごとに置かれ、ほとんどの人間はそのグループの中で活動していただろうから、下の人たちを管理する側の一部の人間だけが他の藩や幕府の者とコミュニケーションがとるための言葉のスキルを持っていれば良かったということなのかも知れない。
明治になって、人の往来は自由になり、出身地から別の地域へ移って生活する人が増え、コミュニケーションの問題が一気に表面化したのだろう。
江戸時代には藩の中や、藩ごとの組織の中で通じていればそれで良かった。
しかし、明治に入り、自治体は分かれていても日本という1つの国の中で国民が出身地を問わずにいろいろなところで生活したり、仕事をしたりするためには外国語のようですらある各地のお国言葉、方言の問題は深刻だったようだ。
各藩が担っていた兵役は1つの軍隊として組織しなおされた。
軍関係の書物でも言葉の問題が指摘されていたらしい。
他の組織でも各地の出身地の人がいただろうから言葉の問題はあっただろうが、例えば官僚であれば高等教育を受けていただろうから、寺子屋などで教科書に当たる書物を読み、ある程度、共通の言葉、書物を書くときに使われていた書き言葉で、お互いに理解できたのかも知れない。
しかし、軍隊であれば、今で言うキャリアみたいな高い地位の将校ならともかく、多くの兵士は教育を受けていなかっただろうから、言葉はやはり通じなかっただろう。
江戸時代のときのように出身地ごとに隊を分けるというわけにもいかなかっただろうし、命令がきちんと伝われなければ組織として成り立たない。
そんなこともあって、国を挙げてこの言葉の問題に取り組まなくてはいけなかったようなのである。
政治家や学者の間で、日本語をどのようにするべきかについて提案があり議論が交された。
郵便局の前身となる組織を作った前島密(まえじまひそか)は日本語を全てひらがなで表すようにして、簡単に学べるようにしようと提案した。
また、学問分野を中心に「芸術」「科学」「技術」「知識」など現在でも使われている多くの言葉を英語などから翻訳して作った西周(にしあまね)は日本語をローマ字表記にしようと言った。
さらに過激な意見としては、初代文部大臣である森有礼の、日本語を捨て、英語を国語にしようというものもあった。
変則的な英語の法則を簡単化するために、例えば
see、speakの過去形は
saw、spokeであるところを
seed、speakedとするという提案もした。
ここで番組のゲストだった厚切りジェイソンからツッコミが入った。
「Why Japanese People ! 何語だよ、これ。もう日本語でも英語でも無いだろ!」
思わず笑ってしまった。
しかし、その後、アジアを中心に華僑など中国系の人たちが使うChinglishや、シンガポールのSinglish、インドの英語など、独自の法則、言い回しを持った英語の亜種ができているのだから、上の提案も悪くは無かったかも知れない。
戦後には志賀直哉が日本語よりも構造そのものが論理的であるなどとして日本語を捨ててフランス語にしようと主張したが、それ以前に英語を採用しようと言う提案があったというのは驚きだ。
言葉を学びやすいようにひらがなのみにしよう、それならローマ字にすればアルファベットに親しみ、外国語を学ぶのに役立つ、それならいっそのこと英語などの外国を国語にしてしまえ、というのは流れとしては当然かも知れない。
色んな意見があるなかで一人の学者が「標準語」に当たるものを作ろうと立ち上がった。
日本初の言語学者と言われる上田万年(うえだかずとし)、万年先生である。
ドイツでも日本と同じ問題を抱えていて標準語を作って対処したのをヨーロッパ留学を通じて知っていた上田万年は同様のものを日本語でも作ろうとしたのである。
万年先生は東京の言葉を元に標準語を定めようと考えたが、中でもある地域の言葉を基準にすることにした。
その地域、山手周辺には元々武家屋敷があり、職業選択ができるようになった明治時代にいち早く「勤め人」になった人たちが集まり、これらの人々はある程度、教育を受けていて教養があったからのようだ。
これらの「勤め人」が農業や漁業といった一次産業でなく、官僚でもない中流階級的とも言える位置付けとして万年先生に見えたことも関係している。
べらんめえ口調の江戸弁は良くないと考えていたようである。
それ以外の人を野蛮とか粗野だと考えていたようにも思えるが、明治になって不十分とは言え、かなり多くの子どもたちが教育を受けられる仕組みができ、教養を身につけた人が増えることを見越しての考えのようにも思える。
そういう教育を受けて出来上がる日本人の理想像として山手周辺の人たちをイメージしたのだろう。
その地域の人達が使う言葉を参考に、標準とする言葉を選定、分類する作業を進め、教科書が作られる。
「オカアサン」の他、音を伸ばすことを表す長音「ー」も採用された。
各地で区別がされにくい発音を聞き分け区別できるようにすることを念頭に置いた、「イスのイ」「エダのエ」など挿し絵の例を用いた五十音の教え。
東北の人は「イ」と「エ」、江戸っ子は「シ」と「ヒ」、九州では「ラ」と「ダ」の発音が似てしまうことを考えて作られていた。
好ましい発音、言葉が覚えやすくなることを期待して歌で教えるということも行われた。
こういうものを通して、日本人は共通の日本語である「標準語」を覚えていったのである。
日本の発展の背景や、明治時代に入って人々が藩という概念を超えて日本という1つの国に属しているという認識が生まれる背景にはこのようなことがあったのだ。
それでも昭和あたりまではかなり方言は残っていたと思う。
AbemaTVで昭和60年代から平成初期あたりのアニメが放送、配信されているが、地方の人たちが登場するシーンがあると、それを見た若い世代はかなり違和感を感じるらしく、「こんなになまってない」などというコメントが必ず出てくる。
アニメやドラマなどでは誇張があるわけだが、それらの作品が作られた頃の大人達は実際にそのような言葉を話していただろうと思う。
NHKなどで古い時代のドキュメントを見ると、年輩の人たちは実際に随分、方言を話しているからだ。
番組に登場している年配者に対して、その人の子供などは大体標準語を話していたりする。
現在のような、イントネーションの違いは残りながらも、日本のほとんどの人たちがおおむね標準語を話すようになったのはかなり最近のことなのである。
それまでは地方の人たちは、標準語で話す人の言っていることは理解していながらも、自分たちは標準語をうまく話せなかったということだろう。
標準語が話せない、なまっているせいで馬鹿にされたり、差別されたりした人たちもいただろう。
多くの人が標準語を話すようになり、失われていく方言を残そう、価値を見なおそうという考えもある。
標準語を普及させることは色々な弊害も生んだだろう。
その是非はともかく、もともとはある種、強制的にお国言葉、方言を駆逐するような勢いで標準語を普及させなければいけないほど、言葉の問題は深刻だったのだということがわかった。
教科書や教育を行うために共通の、画一的な、模範となる教材として標準語が作られて、それを使った教育が行われる中で自然に普及したというような、もっと穏やかなものだったと思っていた。
緊急的な必要性に迫られて、かなり強い意志を持って、人為的に作られ、普及させられたものだったというのは随分、意外だった。
EDWIN(エドウィン)のジャージーズを買った。評判通り、履き心地最高。
Amazonでジャージーズを買った。
注文も簡単、支払いもスムーズ、予定の通りに荷物も届いた。
早速、履いてみた。
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ウォッシュ加工がされたような色落ちのある風合いもあってかなり自然。
通常の店舗で買うと8000円以上するようだが、Amazonではサイズにもよるようだが4000円くらいで買うことができる。
アウトレットがあればさらに安く買うことができる。
着心地もかなり良い。
少しサイズが小さかったのだが、生地が伸びるのでとても動きやすい。
同じサイズの通常のジーンズとは動きやすさが全然違う。
腰回りは伸びないが、そのかわりしっかりしているのですぐによれることは無いのではないかと思う。
家の中で過ごすのにも、外へ出かけるときにも十分使える。
重宝すること間違い無し。
ヘビーローテーションで生地が持つのかちょっと心配ではある。
洗うのは簡単だろう。
色落ちはするのだろうか?
その辺はこれから試してみる。
とにかく安く変えたので、値段以上のものが手に入ったと思う。
ジャージーズ良いよ。
人が薬物にハマる理由:アヘン&ヘロイン編 HOOKED: ILLEGAL DRUGS: OPIUM & HEROIN ---戦争まで引き起こした、画期的麻酔薬と史上最悪のドラッグのルーツ
ケシの実からアヘンはとれる。
阿片戦争を引き起こしたほど、人を惹きつける薬物だ。
現在ではドラッグとしてのイメージしかないが、痛み止め、麻酔として長い間珍重されてきたのである。
しかし、アヘンは中国人の多くを廃人にし、アヘンから合成されてできたヘロインは欧米の人々に依存症と犯罪をもたらした。
1900年ごろにヘロインは製造・販売が始まった。
Wikipediaによると1889年にドイツで販売とあるから、アメリカで売られるようになったのが1900年あたりなのだろう。
もともとは咳止め薬だったらしい。
ヘロインはHeroinと書き、ヒーローに由来する名前だと聞いたことがある。
Heroineと書くとヒロイン、女性主人公の意味になる。
画期的な薬物だったからそのような名前がついたとか、飲むとヒーローのような気分になれるからその名前がついたとか言われているようだ。
もともと咳止めだったのに飲むとヒーローのような気分になるという効能をアピールするのはおかしいと思うが。
依存作用や副作用がない奇跡の薬というところからその名がついたというWikipediaの説明の方が正しそうだ。
現在、そのバイエル社は日本で患者のカルテを勝手に閲覧して問題になっている。
内部告発をしても問題に対処せずうちうちに処理し、内部告発者に退社を勧告し、この告発者が厚生労働省に告発してやっと問題を公表したのである。
日本法人と海外の法人は違うが、何だか根底にある罪深いものがある感じがしてしまう。
大々的に宣伝され、無料サンプルまで配られたらしいが、当初のバイエル社の主張に反して薬物依存の人びとをたくさん生み出し1914年に法律で禁止された。
アメリカにおいては相当悪名高いドラッグのようだ。
依存症だけでなく多くの犯罪者を生み出した。
過剰摂取するとその薬そのものの影響に加えて、深刻な感染症を引き起こすなどし、死に至ることもあるそうだ。
ヘロインは現在でも違法薬物産業の売れ筋商品のひとつである。
アメリカではヘロインを含むドラッグによる死亡者が自動車事故での死亡者数を上回っているという。
このアヘン、ヘロインの原料であるケシの花を、6000年前、古代バビロニアの人びとは「喜びの花」と呼んだ。
花びらが落ちた後の実からは乳白色の汁がとれ、これはそのままアヘンとなるという。
古代バビロニア人は快楽を得るために汁を飲むか乾燥した固まりを食べたらしい。
痛み止めの効果があり、合成薬などない時代にはとても珍重されただろう。
時代は下り、アレキサンダー大王はこのアヘンを軍隊の兵士に使わせて、各地を征服することに成功し、インドでの栽培も行ったという。
兵士達は自らを鼓舞するとともに、つらさを紛らわせたり、戦いで負った傷の傷みを癒やすためにアヘンを使ったのだろう。
古代ローマでは剣闘士たちが同様にしてアヘンを使った。
150年ころには医師のガレノスが依存症や薬物中毒になる危険性を指摘していたらしい。
ヒルを使ったり、吸玉を使うなどの民間療法でしか病気やけがに対処できなかった時代にはアヘンは奇跡の薬のごとく珍重されただろう。
19世紀になっても主な鎮痛薬はアヘンだけという状況が続いたという。
1492年、スペインのイサベル女王とフェルディナンド王がコロンブスを派遣したのは、新航路の開拓とともにインドからアヘンを持ち帰ることを期待してのことだった。
しかし、コロンブスはインドへたどり着くことはできず、代わりにアメリカという新大陸を発見した。
インディアンと言われたネイティブアメリカンたちからタバコというものを教えられる。
このタバコを燃やして煙を吸うというスタイルがアヘンを始めとする薬物に革命をもたらした。
コロンブスがタバコとパイプを持ち帰ったことで、アヘンも同じように煙を吸うスタイルが出来上がり、中国で広まるきっかけになった。
ケシの実の汁を飲んだり食べたりするのでは胃や腸からの吸収という経路で身体を回るので効果が薄かったり、効果が現れるのが遅かったりする。
煙で吸うことで、口の粘膜や肺から有効成分が血液中に吸収され、より早く効率的に効果を得ることができる。
恍惚感、夢の中にいるような気分を味わうことができ、中国のアヘン窟では利用者は横になったまま長いパイプを吸って、文字通り夢見心地になっていた。
1800年頃、中国では相当な数の人がアヘン中毒になっていたという。
当時の政府、王朝である清がアヘンを禁止したが、密輸は止まらず、その出処はインドで、インドは当時イギリスの植民地だった。
歴史で習った東インド会社はアヘンの取り引きも行っていたのである。
そのようなアヘンの密輸を繰り返し、中国に厄災をもたらしていたイギリス人たちを取り締まろうとし、自国民の命や財産を守るという口実でイギリスが反撃して始まったのがアヘン戦争である。
イギリスが勝利し、南京条約という不利な条約を結ばされ、アヘンの流通も続くこととなった。
欧州ではアヘンからより強力な薬物を創りだした。
ヘロインやモルヒネである。
モルヒネはヘロインに先立って、1804年にドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチルナーが開発した。
夢の神モルフェウスにちなんで名付けられたという。
モルヒネは現在でも代表的な麻酔薬だ。
それ以前には鎮痛剤はアヘンしかなく、モルヒネもアヘンから作られていると考えるとアヘンは薬としてもとても偉大である。
モルヒネが作られたころですら手術は日光の下、つまり屋外で行われることが当たり前だった。
鍛冶職人や大工道具と同じようなもので道具で手術されていたという。
モルヒネはそのような手術を受ける患者の負担を大幅に軽くしたのである。
痛みを消すだけでなく、眠ることが出来たからだ。
モルヒネは手術に革命を起こしたのである。
しかし、やはり依存症、薬物中毒を生み出した。
モルヒネで死ぬ人びとが現れ、発明者のゼルチルナーの妻もその犠牲となった。
ゼルチルナー自身が危険性を訴えたにもかかわらず、当時の社会ではほとんど顧みられることはなかったという。
兵士たちは怪我の傷みを取り除いたり、手術をするのにモルヒネを使った。
それによって助かった人たちは多かったのも事実だ。
軍医たちはモルヒネの粉薬を取り出し、兵士達に舐めさせていたという逸話もあるらしい。
このころ、さらにモルヒネの摂取、投与経路にも新しい手法が生まれた。
傷にたらしたり、皮膚に塗りこんだり、口から投与したりするスタイルから、皮下注射に変わったのである。
口からだと効き始めるまでに20分もかかったそうである。
経口投与は依存症を生むと当時の医者は信じており、血液中に直接モルヒネを投与すると30秒で効き始めるため、注射する手法がすぐに一般的になった。
しかし、医者たちの考えに反して、注射によるモルヒネの摂取はよりひどい依存症を生み出すことになった。
傷みがすぐに消えるだけでなく、ラッシュと現在では呼ばれる強烈な幸福感を得ることができることで依存を促進した。
戦争以外でも注射による摂取は広まり、注射器は大量生産され、一般の人も買うことができたらしい。
退役軍人は多くがモルヒネ依存症となった。
アメリカにおける薬物蔓延の最初とも言われているようだ。
1875年ごろ、アメリカは州がそれぞれバラバラに成り立つ時代から合州国として統一した制度で色々なものを取り締まろうと動き始めていた。
ヨーロッパ系の移民は薬物取り締まりの法律を作った。
しかし、それは移民の中でも地域や出自によって扱われ方が変わるという人種差別、偏見と組み合わさっていた。
最初の取締法の対象は南西部のメキシコ系、奴隷、労働力として連れてこられたアフリカ系、そして欧米人から見て特に異質な存在だった中国系の移民たちだった。
西部への入り口であるサンフランシスコに鉄道を敷くためにやってきた中国人たちは差別と偏見にさらされた。
西海岸のインフラは多くが中国系移民たちによって作られたそうだ。
その中国人たちを古参の移民たちは見下しており、差別的な視点によってできあがった法律で苦しめたのである。
薬物問題はそれと結びついた。
アヘンを吸う習慣を持ち込んだのは確かに中国人だったようだが、その習慣を植えつけたのは元々イギリスを始めとするヨーロッパの国である。
アヘン目的の白人女性たちと中国人たちが性的に食い物にされているというイメージもできあがった。
薬物は確かに危険だが、取締法は人種差別が動悸になって作られ、取締りが強化されたのである。
1876年、サンフランシスコで最初の薬物法が制定され、チャイナタウンでのアヘンの吸引が禁止された。
それでも地域ごとに規制され、国家レベルの法律は無かった。
他の地域ではアヘンチンキを始めとするアヘン関連の薬は規制されておらず一般の薬局で売られていた。
頭痛、胃痛、熱、睡眠障害、二日酔い、生理障害、歯痛や下痢などにつかわれており、ビールより安く手に入った。
強壮剤、夜なきの薬などの民間療法的な薬が当時は多く生み出され販売されたが、その多くにはモルヒネが含まれていた。
それらも依存症を生み出した。
当時の女性達は酒場へ行くことができなかったため、それらの薬を飲んで気晴らしをしていたことも影響した。
19世紀後半に行われた調査の結果は当時のアメリカの薬物中毒者の多くが女性だったことを示していたそうである。
中流階級の30から40代の白人でプロテスタントの女性がその中心だ。
医者がほとんどいなかったころ、アヘンを含む市販薬を子供に与え、母親自身もそれを飲んでいた。
そのため、子どもたちにも様々な影響が現れていた。
1906年、薬の原材料表示を義務付ける純正食品薬品法ができた。
それによって人々は自分が飲んでいた薬には危険なモルヒネやコカインが入っていることを知ったのだ。
20世紀の初めまではっきりと法律で禁じられた違法薬物は存在しなかった。
ほとんどの薬物は基本的には合法だった。
アメリカの植民地のフィリピンなどでも麻薬を取り締まれるように国家レベルの法律が必要になったのだ。
キリスト教の司祭チャールズ・ヘンリー・ブレントはアヘンを使っているフィリピン人たちに衝撃を受け、ルーズベルト大統領に手紙を送ったのである。
ルーズベルトはアヘンの危険性について討論する国際会議を企画し、上海で開催した。
1898年、ドイツではアヘンからヘロインを創りだした。
結核や肺炎のひどい咳を抑えるための薬だった。
アスピリンを発売する1年前のことだったという。
注射器とセットで1ドル50セントで販売されていた。
しかも発売から15年ほどの間、処方箋なしに買うことができた。
ヘロインは大ヒットとなった。
しかし、過剰摂取で呼吸が抑制されるなどの症状で死亡する人たちが現れた。
アヘン商品と違い、依存症になったのは田舎の女性ではなく、都市部の若者たちだったという。
ヘロインの錠剤をすり潰して鼻から吸うスタイルはこのころすでにあったらしい。
ヘロインだけでなく多くの薬物が蔓延していた。
1914年、薬物を規制するための初めての連邦法が制定された。
アメリカは現在の銃規制についても国が国民の権利や行動を規制することに否定的である。
その気風は建国当初からあり、薬物規制についても同様の考え方を持つ人が多かった。
そしてフランシス・バートン・ハリソンが麻薬を禁止ではなく麻薬の販売や処方を許可制、そしてそれらに課税することで憲法に違反しない形での麻薬を規制するハリソン麻薬法を制定に動いた。
不法所持という概念はこの後、生まれた。
使用、所持したものも逮捕されたが、医者も1万人が逮捕された。
1923年、カンザス州レブンワースの連邦刑務所では服役している囚人の半分が薬物犯罪者が占めていた。
議会は1924年には治療目的も含めてヘロインの使用を完全に禁止した。
実際に効果はあり、薬物中毒者は20万人から2万人に激減した。
しかし、ヘロインを始めとする薬物が規制されて手に入らなくなったために中毒者による犯罪が多発した。
ヘロインの闇市場ができた。
密売所で作られたヘロイン1kgが1万ドルで売れ、それを8等分や12等分にして売人がさらに売る。
1kgのヘロインが最終的には25万ドルの利益を生むこともあった。
マフィアによる組織犯罪が横行するようになった。
1933年に禁酒法が廃止されると、マフィアは取り扱う商品を酒から薬物に鞍替えした。
ラッキー・ルチアーノはヘロインの密輸ルート「フレンチ・コネクション(コルシカ・コネクション)」を影で牛耳っていたとして有名である。
フランス南部のマルセイユでトルコからのアヘンを原料としてヘロインが製造され、ニューヨークまで運ばれていた。
アメリカはトルコとフランスに圧力をかけたが完全に止めることはできなかった。
ニューヨークの芸術家やジャズミュージシャンがこぞってヘロインをこうした闇ルートから手に入れて使用した。
1940年代から1950年代にはヘロインは反抗的なイメージや手に入りやすさから都市部で浸透していた。
都市部に移り住んだアフリカ系やラテン系の人々が主にヘロインを使用していたという。
1956年に薬物犯罪は罰則が強化された。
初犯は2年から5年、2度目は最長10年、3度目には最長20年の刑に科せられた。
それでもヘロインは根絶できなかった。
60年代には薬物の密輸、販売、使用、依存の問題は拡大し、社会問題になっていた。
スラム街だけでなく都市部の白人の若者にまで広まっていた。
中毒者による都市部の犯罪が急増した。
ニクソンは犯罪、その背景になっている薬物の撲滅に取り組んだ。
ヘロイン、マリファナを最も危険な薬物スケジュール1に分類した。
麻薬取締局の長官にジョン・バーテルズを据えた。
バーテルズはベトナム戦争で兵士達がヘロインを使って中毒になっていることを問題視した。
1971年に国防総省は兵士に尿検査を義務付け、クリーンでなければ従軍し続け国に帰れないようにするという計画を立てた。
こうした取り組みもあってヘロイン使用者は減った。
ロナルド・レーガンが大統領になる前後、ヘロインに変わってクラック・コカインが蔓延し始めていた。
それでもヘロイン、アヘンの流れを組む薬物は消え去ることはなかった。
90年代の半ば、製薬会社パーデュー・ファーマは鎮痛薬オキシコンチンを販売した。
オピオイド系鎮痛薬と呼ばれるこの薬はヘロインと同じくアヘンから作られるのである。
ヘロインを錠剤にしただけで構造も脳への影響もヘロインと変わらないという専門家もいる。
製薬会社が2600万ドルをつぎ込んでオキシコンチンを売り込んだ結果、医師による安易な処方が相次ぎ、薬物中毒を生み出した。
鎮痛薬の過剰摂取による死亡者は自動車事故による死亡者数を上回るようになっている。
ヘロイン自体も中毒患者を再び増やし、2007年から2012年の間に乱用者の件数が2倍近くに増えた。
鎮痛薬がきっかけになったと言われている。
669000人のヘロイン使用者がいるという調査結果もあり、その多くが郊外に住む裕福な若者だとされている。
オスカー俳優のフィリップ・シーモア・ホフマンはヘロインを含む薬物の過剰摂取で死亡した。
ヘロインとの戦いは現在も続いている。
アヘンを含めた薬物を煙で吸うという摂取スタイルは、ネイティブアメリカンのタバコが起源だということを初めて知った。
勉強になった。
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