デザイナーってクリエイターじゃないの?
これ、おかしいと思いませんか?
芸術家、クリエイターにも依頼者が要求するイメージをつかむ作業はあるはず
草彅 そうですね。そもそもデザイナーはクリエイターではないんですよ。そこを勘違いしている人が多いと感じます。
僕は、デザイナーって精神科医とか青森のイタコのような存在、つまり媒介者だといつも思っているんです。
みなさんは、アーティストを志す人が「誰も自分の芸術性を認めてくれない」と愚痴っているをたしなめるときに使われる話を聞いたことはありませんか?
あのダヴィンチやミケランジェロもパトロンや絵あるいは彫刻の依頼者がいて、彼らの要望が最優先。
彼らはそういった制限の中で、自分が表現したいことや新しい技術・技法に挑戦してきたんだ、と。
それらを創造性と呼ぶのなら、デザイナーはそれを捨てた人たちということになります。
そんなことあるでしょうか?
麻婆豆腐のレシピとのれん分け
草彅 はい。例えば今回の出来事も料理に置き換えてみると分かりやすいかも知れません。
たとえば料理人が麻婆豆腐のお店をはじめたいと思ったとします。もちろんお店を出すにあたって、必ずしも麻婆豆腐の創始者である必要はないわけです。
でも、そのお店ならではの味を生み出してテイストバリューを作り出そうとしますよね。創造者ではなくても、料理人として自分だけの麻婆豆腐を出す努力をしていく。
ここで麻婆豆腐を提供したからといってパクった、パクってないみたいな話は出てこないですよね?
最初に作った人のオリジナリティは認められるべきというのは料理界にもあるでしょう。
登場してどのくらい年月が経てば一般的な作品(料理)のジャンルの1つになるかが違うだけで。
一般的な料理の1ジャンルになっても、パクリとはならないのは材料やコアな部分の調理法だけで、通常はその店独自の味を追求しなければならないはずです。
画材や題材などは同じでもそこにオリジナリティがなければならないのと同じですよね?
全く同じレシピ、同じ味を追求してよく、また追求するよう要求された結果、許されるのが「のれん分け」です。
それが許されてもいないのに、レシピを盗み出せば問題になります。
この記事の冒頭にはこんな断り書きがあります。
※本インタビューはトートバッグや空港写真などの盗用問題、佐野氏の人格等についてはすべて切り離し、扱っておりません。あらかじめご了承のうえお読みください。
五輪エンブレムに関しては言及があります。
草彅 デザインは美意識が一番大切とされているからです。「かっこいい」とか「美しい」という、漠然とした「感覚」を査定するには、審査する側がきちんとした審美眼と信用を持っていなければそもそも評価できません。
たとえば、1964年東京オリンピックのポスターを手掛けた、グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏も「多数決でデザインの良しあしを決めるのは馬鹿げたことだ。特に有識者とか市民代表の意見はいらない。あくまで専門家が選ぶべきだ」(野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』より)と述べています。
デザイン界の第一線にいる佐藤卓さんも「デザインの決定に民主主義はあり得ない」とインタビューで語っています。
草彅氏は多分、佐野研二郎氏のエンプレムについてはパクリではないという立場なのだと思います。
あの騒動で問題になったのはほぼデザインの美的な優劣ではなくて、あのエンプレムがパクリであるかどうかだったと思います。
あのエンプレムだけでは判断はできないが、過去の作品にはこれだけパクリが確実であるように思われるものがあるが、五輪エンプレムは本当に信用できるのか?ということではなかったでしょうか?
仮に「デザインに民主主義は有り得ない」としても「『パクリかどうか』『類似性があるかどうか』には民主主義は有り得る」のではないでしょうか?
また、組織内での決定を経てはいても結局は、そのデザインが例えば企業や商品のイメージを良く表しているかどうかを決めるのは「民」ではないですか?
商品キャラクターやコピーライトやロゴを発表したけれども、あまり評判がよろしくなくて、半年と経たないうちにまた新しいものに変わっていたり、以前のものに戻されていたりしたことはありませんでしたか?
そもそもアートなら前衛的で万人の理解しがたいものの芸術性は認められるべきかも知れませんが、もしデザインがアートではなく、デザイナーがそういったアートをクリエイトする人たちではないのなら、そこに民主主義を無視した新規性は必要なのでしょうか?
デザイン業界の方々は何故、左野氏を擁護する発言ばかりするのか?
擁護しているつもりはないのだけど、少し世間の人は誤解しているというニュアンスの発言なのかも知れません。
だとしてもそのズレの本質が未だに理解できません。