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あれこれ備忘録@はてなブログ

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こうして「日本語」は生まれた。歴史秘話ヒストリア「日本人なのに通じナイ!? 明治標準語ことはじめ」

NHK 歴史秘話ヒストリア「日本人なのに通じナイ!? 明治標準語ことはじめ」を見た。

www4.nhk.or.jp

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大政奉還が行われ、江戸から明治へ変わった日本では各地の郷土言葉、方言が原因で日本人同士でも意思疎通ができないという問題への対処が課題となっていた。

番組の中では東京だと思われる町で地元の人間と思われる人力車を引く車夫と東北から来た者、そして二人のトラブルに対処しようとする薩摩出身の憲兵、そして京都から来た公家の会話が例として紹介されていた。

日比谷だか渋谷だか分からない発音で話す東北の人。

心が広いという意味で「太か(太い)」という言葉を使う薩摩、鹿児島の憲兵

自分のことを「まろ」と言い、お茶を「おぶ」という京都の公家。

同じ日本人なのにイントネーションだけでなく、単語や言い回し、発音が全く異なり、会話が成立しないのである。

もう一つの例として列車の中での出来事もあった。

仙台出身の女性は、おやつを「こじはん」、間食を「こびり」などと言い、失礼なことしたというような意味で「かわいくねぇことした」と言うのである。

場合によっては、学校で勉強をした教師などであれば英語の方が理解できたというのである。

各地の

江戸の話だが、『おーい竜馬』という漫画で剣術修行のために江戸へ出てきた竜馬が道を尋ねるのに「げにまっこと、すまんけど」という言葉を使い、通じなかったというシーンがあったのを思い出した。

「すまんけど」は分かるとして「まっこと」は「本当に」という意味だろう。

それをさらに強調する言葉として「げに」という単語が土佐弁にあるようだ。

これは通じないだろうと思う。

江戸時代には300もの藩に分かれており、藩の数だけあったわけではないにせよ、かなり数のお国言葉が存在していたようだ。

いわゆるお国言葉は昔からあるわけで、何故、明治になってから問題になったのだろうと思ったのだが、江戸時代には許可がなければ、藩を出ることはできず、一般の人が藩の外で別の藩の人間とコミュニケーションをとることはまずなかったのだろう。

その上、身分や仕事、性別などでも使う言葉が異なっていたらしい。

今でも漁師の人たちが使うちょっと荒い言葉を「浜言葉」などというが、そんなものが多数あったのだろう。

明治以降で言う軍に当たるものやその他の組織も藩ごとに置かれ、ほとんどの人間はそのグループの中で活動していただろうから、下の人たちを管理する側の一部の人間だけが他の藩や幕府の者とコミュニケーションがとるための言葉のスキルを持っていれば良かったということなのかも知れない。

明治になって、人の往来は自由になり、出身地から別の地域へ移って生活する人が増え、コミュニケーションの問題が一気に表面化したのだろう。

江戸時代には藩の中や、藩ごとの組織の中で通じていればそれで良かった。

しかし、明治に入り、自治体は分かれていても日本という1つの国の中で国民が出身地を問わずにいろいろなところで生活したり、仕事をしたりするためには外国語のようですらある各地のお国言葉、方言の問題は深刻だったようだ。

各藩が担っていた兵役は1つの軍隊として組織しなおされた。

軍関係の書物でも言葉の問題が指摘されていたらしい。

他の組織でも各地の出身地の人がいただろうから言葉の問題はあっただろうが、例えば官僚であれば高等教育を受けていただろうから、寺子屋などで教科書に当たる書物を読み、ある程度、共通の言葉、書物を書くときに使われていた書き言葉で、お互いに理解できたのかも知れない。

しかし、軍隊であれば、今で言うキャリアみたいな高い地位の将校ならともかく、多くの兵士は教育を受けていなかっただろうから、言葉はやはり通じなかっただろう。

江戸時代のときのように出身地ごとに隊を分けるというわけにもいかなかっただろうし、命令がきちんと伝われなければ組織として成り立たない。

そんなこともあって、国を挙げてこの言葉の問題に取り組まなくてはいけなかったようなのである。

政治家や学者の間で、日本語をどのようにするべきかについて提案があり議論が交された。

郵便局の前身となる組織を作った前島密(まえじまひそか)は日本語を全てひらがなで表すようにして、簡単に学べるようにしようと提案した。

また、学問分野を中心に「芸術」「科学」「技術」「知識」など現在でも使われている多くの言葉を英語などから翻訳して作った西周(にしあまね)は日本語をローマ字表記にしようと言った。

さらに過激な意見としては、初代文部大臣である森有礼の、日本語を捨て、英語を国語にしようというものもあった。

変則的な英語の法則を簡単化するために、例えば

see、speakの過去形は

saw、spokeであるところを

seed、speakedとするという提案もした。

ここで番組のゲストだった厚切りジェイソンからツッコミが入った。

「Why Japanese People ! 何語だよ、これ。もう日本語でも英語でも無いだろ!」

思わず笑ってしまった。

しかし、その後、アジアを中心に華僑など中国系の人たちが使うChinglishや、シンガポールのSinglish、インドの英語など、独自の法則、言い回しを持った英語の亜種ができているのだから、上の提案も悪くは無かったかも知れない。

戦後には志賀直哉が日本語よりも構造そのものが論理的であるなどとして日本語を捨ててフランス語にしようと主張したが、それ以前に英語を採用しようと言う提案があったというのは驚きだ。

言葉を学びやすいようにひらがなのみにしよう、それならローマ字にすればアルファベットに親しみ、外国語を学ぶのに役立つ、それならいっそのこと英語などの外国を国語にしてしまえ、というのは流れとしては当然かも知れない。

色んな意見があるなかで一人の学者が「標準語」に当たるものを作ろうと立ち上がった。

日本初の言語学者と言われる上田万年(うえだかずとし)、万年先生である。

ドイツでも日本と同じ問題を抱えていて標準語を作って対処したのをヨーロッパ留学を通じて知っていた上田万年は同様のものを日本語でも作ろうとしたのである。

万年先生は東京の言葉を元に標準語を定めようと考えたが、中でもある地域の言葉を基準にすることにした。

その地域、山手周辺には元々武家屋敷があり、職業選択ができるようになった明治時代にいち早く「勤め人」になった人たちが集まり、これらの人々はある程度、教育を受けていて教養があったからのようだ。

これらの「勤め人」が農業や漁業といった一次産業でなく、官僚でもない中流階級的とも言える位置付けとして万年先生に見えたことも関係している。

べらんめえ口調の江戸弁は良くないと考えていたようである。

それ以外の人を野蛮とか粗野だと考えていたようにも思えるが、明治になって不十分とは言え、かなり多くの子どもたちが教育を受けられる仕組みができ、教養を身につけた人が増えることを見越しての考えのようにも思える。

そういう教育を受けて出来上がる日本人の理想像として山手周辺の人たちをイメージしたのだろう。

その地域の人達が使う言葉を参考に、標準とする言葉を選定、分類する作業を進め、教科書が作られる。

「オカアサン」の他、音を伸ばすことを表す長音「ー」も採用された。

各地で区別がされにくい発音を聞き分け区別できるようにすることを念頭に置いた、「イスのイ」「エダのエ」など挿し絵の例を用いた五十音の教え。

東北の人は「イ」と「エ」、江戸っ子は「シ」と「ヒ」、九州では「ラ」と「ダ」の発音が似てしまうことを考えて作られていた。

好ましい発音、言葉が覚えやすくなることを期待して歌で教えるということも行われた。

こういうものを通して、日本人は共通の日本語である「標準語」を覚えていったのである。

日本の発展の背景や、明治時代に入って人々が藩という概念を超えて日本という1つの国に属しているという認識が生まれる背景にはこのようなことがあったのだ。

それでも昭和あたりまではかなり方言は残っていたと思う。

AbemaTVで昭和60年代から平成初期あたりのアニメが放送、配信されているが、地方の人たちが登場するシーンがあると、それを見た若い世代はかなり違和感を感じるらしく、「こんなになまってない」などというコメントが必ず出てくる。

アニメやドラマなどでは誇張があるわけだが、それらの作品が作られた頃の大人達は実際にそのような言葉を話していただろうと思う。

NHKなどで古い時代のドキュメントを見ると、年輩の人たちは実際に随分、方言を話しているからだ。

番組に登場している年配者に対して、その人の子供などは大体標準語を話していたりする。

現在のような、イントネーションの違いは残りながらも、日本のほとんどの人たちがおおむね標準語を話すようになったのはかなり最近のことなのである。

それまでは地方の人たちは、標準語で話す人の言っていることは理解していながらも、自分たちは標準語をうまく話せなかったということだろう。

標準語が話せない、なまっているせいで馬鹿にされたり、差別されたりした人たちもいただろう。

多くの人が標準語を話すようになり、失われていく方言を残そう、価値を見なおそうという考えもある。

標準語を普及させることは色々な弊害も生んだだろう。

その是非はともかく、もともとはある種、強制的にお国言葉、方言を駆逐するような勢いで標準語を普及させなければいけないほど、言葉の問題は深刻だったのだということがわかった。

教科書や教育を行うために共通の、画一的な、模範となる教材として標準語が作られて、それを使った教育が行われる中で自然に普及したというような、もっと穏やかなものだったと思っていた。

緊急的な必要性に迫られて、かなり強い意志を持って、人為的に作られ、普及させられたものだったというのは随分、意外だった。

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