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人が薬物にハマる理由:アヘン&ヘロイン編 HOOKED: ILLEGAL DRUGS: OPIUM & HEROIN ---戦争まで引き起こした、画期的麻酔薬と史上最悪のドラッグのルーツ

www.historychannel.co.jp

ケシの実からアヘンはとれる。

阿片戦争を引き起こしたほど、人を惹きつける薬物だ。

現在ではドラッグとしてのイメージしかないが、痛み止め、麻酔として長い間珍重されてきたのである。

しかし、アヘンは中国人の多くを廃人にし、アヘンから合成されてできたヘロインは欧米の人々に依存症と犯罪をもたらした。

1900年ごろにヘロインは製造・販売が始まった。

ヘロイン - Wikipedia

Wikipediaによると1889年にドイツで販売とあるから、アメリカで売られるようになったのが1900年あたりなのだろう。

もともとは咳止め薬だったらしい。

ヘロインはHeroinと書き、ヒーローに由来する名前だと聞いたことがある。

Heroineと書くとヒロイン、女性主人公の意味になる。

画期的な薬物だったからそのような名前がついたとか、飲むとヒーローのような気分になれるからその名前がついたとか言われているようだ。

もともと咳止めだったのに飲むとヒーローのような気分になるという効能をアピールするのはおかしいと思うが。

依存作用や副作用がない奇跡の薬というところからその名がついたというWikipediaの説明の方が正しそうだ。

アスピリンを開発、販売したバイエル社が生み出したそうだ。

現在、そのバイエル社は日本で患者のカルテを勝手に閲覧して問題になっている。

内部告発をしても問題に対処せずうちうちに処理し、内部告発者に退社を勧告し、この告発者が厚生労働省に告発してやっと問題を公表したのである。

日本法人と海外の法人は違うが、何だか根底にある罪深いものがある感じがしてしまう。

大々的に宣伝され、無料サンプルまで配られたらしいが、当初のバイエル社の主張に反して薬物依存の人びとをたくさん生み出し1914年に法律で禁止された。

アメリカにおいては相当悪名高いドラッグのようだ。

依存症だけでなく多くの犯罪者を生み出した。

過剰摂取するとその薬そのものの影響に加えて、深刻な感染症を引き起こすなどし、死に至ることもあるそうだ。

ヘロインは現在でも違法薬物産業の売れ筋商品のひとつである。

アメリカではヘロインを含むドラッグによる死亡者が自動車事故での死亡者数を上回っているという。

このアヘン、ヘロインの原料であるケシの花を、6000年前、古代バビロニアの人びとは「喜びの花」と呼んだ。

花びらが落ちた後の実からは乳白色の汁がとれ、これはそのままアヘンとなるという。

古代バビロニア人は快楽を得るために汁を飲むか乾燥した固まりを食べたらしい。

痛み止めの効果があり、合成薬などない時代にはとても珍重されただろう。

時代は下り、アレキサンダー大王はこのアヘンを軍隊の兵士に使わせて、各地を征服することに成功し、インドでの栽培も行ったという。

兵士達は自らを鼓舞するとともに、つらさを紛らわせたり、戦いで負った傷の傷みを癒やすためにアヘンを使ったのだろう。

古代ローマでは剣闘士たちが同様にしてアヘンを使った。

150年ころには医師のガレノスが依存症や薬物中毒になる危険性を指摘していたらしい。

ヒルを使ったり、吸玉を使うなどの民間療法でしか病気やけがに対処できなかった時代にはアヘンは奇跡の薬のごとく珍重されただろう。

19世紀になっても主な鎮痛薬はアヘンだけという状況が続いたという。

1492年、スペインのイサベル女王とフェルディナンド王がコロンブスを派遣したのは、新航路の開拓とともにインドからアヘンを持ち帰ることを期待してのことだった。

しかし、コロンブスはインドへたどり着くことはできず、代わりにアメリカという新大陸を発見した。

インディアンと言われたネイティブアメリカンたちからタバコというものを教えられる。

このタバコを燃やして煙を吸うというスタイルがアヘンを始めとする薬物に革命をもたらした。

コロンブスがタバコとパイプを持ち帰ったことで、アヘンも同じように煙を吸うスタイルが出来上がり、中国で広まるきっかけになった。

ケシの実の汁を飲んだり食べたりするのでは胃や腸からの吸収という経路で身体を回るので効果が薄かったり、効果が現れるのが遅かったりする。

煙で吸うことで、口の粘膜や肺から有効成分が血液中に吸収され、より早く効率的に効果を得ることができる。

恍惚感、夢の中にいるような気分を味わうことができ、中国のアヘン窟では利用者は横になったまま長いパイプを吸って、文字通り夢見心地になっていた。

1800年頃、中国では相当な数の人がアヘン中毒になっていたという。

当時の政府、王朝である清がアヘンを禁止したが、密輸は止まらず、その出処はインドで、インドは当時イギリスの植民地だった。

歴史で習った東インド会社はアヘンの取り引きも行っていたのである。

そのようなアヘンの密輸を繰り返し、中国に厄災をもたらしていたイギリス人たちを取り締まろうとし、自国民の命や財産を守るという口実でイギリスが反撃して始まったのがアヘン戦争である。

イギリスが勝利し、南京条約という不利な条約を結ばされ、アヘンの流通も続くこととなった。

欧州ではアヘンからより強力な薬物を創りだした。

ヘロインやモルヒネである。

モルヒネはヘロインに先立って、1804年にドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチルナーが開発した。

夢の神モルフェウスにちなんで名付けられたという。

モルヒネは現在でも代表的な麻酔薬だ。

それ以前には鎮痛剤はアヘンしかなく、モルヒネもアヘンから作られていると考えるとアヘンは薬としてもとても偉大である。

モルヒネが作られたころですら手術は日光の下、つまり屋外で行われることが当たり前だった。

鍛冶職人や大工道具と同じようなもので道具で手術されていたという。

モルヒネはそのような手術を受ける患者の負担を大幅に軽くしたのである。

痛みを消すだけでなく、眠ることが出来たからだ。

モルヒネは手術に革命を起こしたのである。

しかし、やはり依存症、薬物中毒を生み出した。

モルヒネで死ぬ人びとが現れ、発明者のゼルチルナーの妻もその犠牲となった。

ゼルチルナー自身が危険性を訴えたにもかかわらず、当時の社会ではほとんど顧みられることはなかったという。

アメリカ南北戦争でもモルヒネは大いに役立った。

兵士たちは怪我の傷みを取り除いたり、手術をするのにモルヒネを使った。

それによって助かった人たちは多かったのも事実だ。

軍医たちはモルヒネの粉薬を取り出し、兵士達に舐めさせていたという逸話もあるらしい。

このころ、さらにモルヒネの摂取、投与経路にも新しい手法が生まれた。

傷にたらしたり、皮膚に塗りこんだり、口から投与したりするスタイルから、皮下注射に変わったのである。

口からだと効き始めるまでに20分もかかったそうである。

経口投与は依存症を生むと当時の医者は信じており、血液中に直接モルヒネを投与すると30秒で効き始めるため、注射する手法がすぐに一般的になった。

しかし、医者たちの考えに反して、注射によるモルヒネの摂取はよりひどい依存症を生み出すことになった。

傷みがすぐに消えるだけでなく、ラッシュと現在では呼ばれる強烈な幸福感を得ることができることで依存を促進した。

戦争以外でも注射による摂取は広まり、注射器は大量生産され、一般の人も買うことができたらしい。

退役軍人は多くがモルヒネ依存症となった。

アメリカにおける薬物蔓延の最初とも言われているようだ。

1875年ごろ、アメリカは州がそれぞれバラバラに成り立つ時代から合州国として統一した制度で色々なものを取り締まろうと動き始めていた。

ヨーロッパ系の移民は薬物取り締まりの法律を作った。

しかし、それは移民の中でも地域や出自によって扱われ方が変わるという人種差別、偏見と組み合わさっていた。

最初の取締法の対象は南西部のメキシコ系、奴隷、労働力として連れてこられたアフリカ系、そして欧米人から見て特に異質な存在だった中国系の移民たちだった。

西部への入り口であるサンフランシスコに鉄道を敷くためにやってきた中国人たちは差別と偏見にさらされた。

西海岸のインフラは多くが中国系移民たちによって作られたそうだ。

その中国人たちを古参の移民たちは見下しており、差別的な視点によってできあがった法律で苦しめたのである。

薬物問題はそれと結びついた。

アヘンを吸う習慣を持ち込んだのは確かに中国人だったようだが、その習慣を植えつけたのは元々イギリスを始めとするヨーロッパの国である。

アヘン目的の白人女性たちと中国人たちが性的に食い物にされているというイメージもできあがった。

薬物は確かに危険だが、取締法は人種差別が動悸になって作られ、取締りが強化されたのである。

1876年、サンフランシスコで最初の薬物法が制定され、チャイナタウンでのアヘンの吸引が禁止された。

それでも地域ごとに規制され、国家レベルの法律は無かった。

他の地域ではアヘンチンキを始めとするアヘン関連の薬は規制されておらず一般の薬局で売られていた。

頭痛、胃痛、熱、睡眠障害、二日酔い、生理障害、歯痛や下痢などにつかわれており、ビールより安く手に入った。

強壮剤、夜なきの薬などの民間療法的な薬が当時は多く生み出され販売されたが、その多くにはモルヒネが含まれていた。

それらも依存症を生み出した。

当時の女性達は酒場へ行くことができなかったため、それらの薬を飲んで気晴らしをしていたことも影響した。

19世紀後半に行われた調査の結果は当時のアメリカの薬物中毒者の多くが女性だったことを示していたそうである。

中流階級の30から40代の白人でプロテスタントの女性がその中心だ。

医者がほとんどいなかったころ、アヘンを含む市販薬を子供に与え、母親自身もそれを飲んでいた。

そのため、子どもたちにも様々な影響が現れていた。

1906年、薬の原材料表示を義務付ける純正食品薬品法ができた。

それによって人々は自分が飲んでいた薬には危険なモルヒネやコカインが入っていることを知ったのだ。

20世紀の初めまではっきりと法律で禁じられた違法薬物は存在しなかった。

ほとんどの薬物は基本的には合法だった。

アメリカの植民地のフィリピンなどでも麻薬を取り締まれるように国家レベルの法律が必要になったのだ。

キリスト教の司祭チャールズ・ヘンリー・ブレントはアヘンを使っているフィリピン人たちに衝撃を受け、ルーズベルト大統領に手紙を送ったのである。

ルーズベルトはアヘンの危険性について討論する国際会議を企画し、上海で開催した。

1898年、ドイツではアヘンからヘロインを創りだした。

結核や肺炎のひどい咳を抑えるための薬だった。

アスピリンを発売する1年前のことだったという。

注射器とセットで1ドル50セントで販売されていた。

しかも発売から15年ほどの間、処方箋なしに買うことができた。

ヘロインは大ヒットとなった。

しかし、過剰摂取で呼吸が抑制されるなどの症状で死亡する人たちが現れた。

アヘン商品と違い、依存症になったのは田舎の女性ではなく、都市部の若者たちだったという。

ヘロインの錠剤をすり潰して鼻から吸うスタイルはこのころすでにあったらしい。

ヘロインだけでなく多くの薬物が蔓延していた。

1914年、薬物を規制するための初めての連邦法が制定された。

アメリカは現在の銃規制についても国が国民の権利や行動を規制することに否定的である。

その気風は建国当初からあり、薬物規制についても同様の考え方を持つ人が多かった。

そしてフランシス・バートン・ハリソンが麻薬を禁止ではなく麻薬の販売や処方を許可制、そしてそれらに課税することで憲法に違反しない形での麻薬を規制するハリソン麻薬法を制定に動いた。

不法所持という概念はこの後、生まれた。

使用、所持したものも逮捕されたが、医者も1万人が逮捕された。

1923年、カンザス州レブンワースの連邦刑務所では服役している囚人の半分が薬物犯罪者が占めていた。

議会は1924年には治療目的も含めてヘロインの使用を完全に禁止した。

実際に効果はあり、薬物中毒者は20万人から2万人に激減した。

しかし、ヘロインを始めとする薬物が規制されて手に入らなくなったために中毒者による犯罪が多発した。

ヘロインの闇市場ができた。

密売所で作られたヘロイン1kgが1万ドルで売れ、それを8等分や12等分にして売人がさらに売る。

1kgのヘロインが最終的には25万ドルの利益を生むこともあった。

マフィアによる組織犯罪が横行するようになった。

1933年禁酒法が廃止されると、マフィアは取り扱う商品を酒から薬物に鞍替えした。

ラッキー・ルチアーノはヘロインの密輸ルート「フレンチ・コネクション(コルシカ・コネクション)」を影で牛耳っていたとして有名である。

フランス南部のマルセイユでトルコからのアヘンを原料としてヘロインが製造され、ニューヨークまで運ばれていた。

アメリカはトルコとフランスに圧力をかけたが完全に止めることはできなかった。

ニューヨークの芸術家やジャズミュージシャンがこぞってヘロインをこうした闇ルートから手に入れて使用した。

1940年代から1950年代にはヘロインは反抗的なイメージや手に入りやすさから都市部で浸透していた。

都市部に移り住んだアフリカ系やラテン系の人々が主にヘロインを使用していたという。

1956年に薬物犯罪は罰則が強化された。

初犯は2年から5年、2度目は最長10年、3度目には最長20年の刑に科せられた。

それでもヘロインは根絶できなかった。

60年代には薬物の密輸、販売、使用、依存の問題は拡大し、社会問題になっていた。

スラム街だけでなく都市部の白人の若者にまで広まっていた。

中毒者による都市部の犯罪が急増した。

ニクソンは犯罪、その背景になっている薬物の撲滅に取り組んだ。

ヘロイン、マリファナを最も危険な薬物スケジュール1に分類した。

麻薬取締局の長官にジョン・バーテルズを据えた。

バーテルズはベトナム戦争で兵士達がヘロインを使って中毒になっていることを問題視した。

1971年に国防総省は兵士に尿検査を義務付け、クリーンでなければ従軍し続け国に帰れないようにするという計画を立てた。

こうした取り組みもあってヘロイン使用者は減った。

ロナルド・レーガンが大統領になる前後、ヘロインに変わってクラック・コカインが蔓延し始めていた。

それでもヘロイン、アヘンの流れを組む薬物は消え去ることはなかった。

90年代の半ば、製薬会社パーデュー・ファーマは鎮痛薬オキシコンチンを販売した。

オピオイド系鎮痛薬と呼ばれるこの薬はヘロインと同じくアヘンから作られるのである。

ヘロインを錠剤にしただけで構造も脳への影響もヘロインと変わらないという専門家もいる。

製薬会社が2600万ドルをつぎ込んでオキシコンチンを売り込んだ結果、医師による安易な処方が相次ぎ、薬物中毒を生み出した。

鎮痛薬の過剰摂取による死亡者は自動車事故による死亡者数を上回るようになっている。

ヘロイン自体も中毒患者を再び増やし、2007年から2012年の間に乱用者の件数が2倍近くに増えた。

鎮痛薬がきっかけになったと言われている。

669000人のヘロイン使用者がいるという調査結果もあり、その多くが郊外に住む裕福な若者だとされている。

オスカー俳優のフィリップ・シーモア・ホフマンはヘロインを含む薬物の過剰摂取で死亡した。

ヘロインとの戦いは現在も続いている。


アヘンを含めた薬物を煙で吸うという摂取スタイルは、ネイティブアメリカンのタバコが起源だということを初めて知った。

勉強になった。

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