あれこれ備忘録@はてなブログ

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海外ではクレイジーという指摘も。日本における子殺しについてもう少し考えてみた

 

arekorebibouroku.hateblo.jp

 

前回の記事に、てらかっぱさんから言及がありました。

 

terakappa.hateblo.j

 

はてな的には追記するのが一般的なのかも知れませんが、新しく記事を書いてみることにしました。

 

江戸や明治初期あたりの日本人が、子供を猫可愛がりする民族であることはいろいろな記録があるようです。

 

江戸時代の父親は、あきれるほどイクメン - NAVER まとめ

 

渡辺京二 『逝きし世の面影』を読む。

 

しかしその半面、前回も紹介した本では、各地域で子殺しが一般的に行われていたことが指摘されています。

 

 それは間引き、へす、うすごろう、もどす、かえす、といった隠語に見ることができるそうです。

 

前回、戦争中にアメリカがそのことをプロパガンダに使ったという話をしましたが、子供を1つの独立した命と考えない文化があると海外から指摘されても仕方がない現実があったわけです。

 

てらかっぱさんが指摘されているようにその背景にはもしかすると仏教的な考えもあったのかも知れません。

 

件の本でも、日本最古の大宝律令にも堕胎・殺児に関する刑罰がなく、王朝時代にはすでに盛んに行われていたという指摘や、鎌倉室町でもその状況が変わっていないことはフランシスコ・ザビエルが言及しているそうです。

 

当時は僧侶が医学も担っていたこともあるでしょうが、僧侶が妊娠している女性と話し合って堕胎したり、生まれてしまった時には窒息させたりしたという記述が1625年モンタス著「日本民族観」にもあるとのことです。

 

昭和初期あたりにそれは心中と呼ばれるようになるようです。

 

心中はそれまでは男女の情死に対して使われたもののようで、表現の上では子供の命の重さは格上げされた感はあります。

 

心中は形式的にはそれをするもの全員が了解の上で決行するものだからで、意志を無視して行われる場合は、無理心中として区別されます。

 

そこには子どもと大人の命の等価性が認められると言えるかも知れません。

 

その代わり、心中という言葉で子殺しが美化されたと先の本の中で著者は指摘しています。

 

心中とは心の中とか真心という意味を持っているからだそうです。

 

そのせいかどうかはわかりませんが、確かに心中については、当事者を非難する声よりも、「痛ましい」という同情的な声の方が、未だに多いような気がします。

 

少し脱線すると、父子家庭での心中については当時(昭和50年代)でも実刑があるなど男女の不平等があったようです。

 

男性に比べて女性の社会的地位が低く、定職も見つけにくいという背景があったからでしょうが、子供を抱えてフルタイムの仕事をしづらいのは男性も同じはずで、実際、そのようにして子供を放置したことによる事件事故があればやはり男性は大いに責められたはずです。

 

結局、女性は同情されるべき存在というのがさきにあって、上の理由は後付なのでしょう。

 

 

昭和や平成の初期には、海外ではこう言っているというような単純な日本批判、自虐主義みたいなものがあったのでそのまま信用することは出来ませんが、著者が心中の話を日本ですれば上で上げたように同情の声が聞こえるのに対して、アメリカでその話をして感想を求めると、自殺はともかく子供を道連れにするのは「クレイジー」という答えが返ってくることが大半だったようです。

 

心中を図ったのがたとえ母親でも、その人は刑務所へ行くか、さもなくば精神病院へ強制的に入院させる必要があると考えて、同情的な声などはほとんど聞かれなかったのだと言います。

 

 

日本では、同情の声があるばかりでなく、本が書かれた当時、ある学者が「もしあなたに精神障害者身体障害者が生まれたら?」と女子短大生にアンケートを取ったところ、大半の答えが「親子心中する」だったとのことです。

 

果たして、現在ではこのように答える人の割合はどの程度でしょうね?

 

 

子殺しの背景をてらかっぱさんは仏教や儒教の影響を可能性として考えていますが、日本独特のものなのかも知れません。

 

arekorebibouroku.hateblo.jp

 

 

 

つまり、家族に依存的だったり、反面、他人には助けを求めづらい、周りもよそよそしい独特な民族性は日本独特のものかも知れないということです。

 

呉善花さんという現在は帰化されている元韓国人の方が、日本的な考え方を象徴する表現として「死なれる」という言葉を挙げています。

 

例えば「離れがたい家族に自分より先に死なれるのはつらい」などという言い方は、他の国にはほぼ有り得ない言い方になるそうです。

 

それに代表されるように日本語には受身的な言い回しが多く、そこに相手への依存度の高さや甘えの構造が見られるのだと呉善花さんは指摘します。

 

それは必ずしも否定的に評価されるものではないのですが、心中を行う心理に関係するのならば見直されるべきところもあるのでしょうね。

 

 

他人に迷惑をかけるべきでなく、迷惑を掛けるような立場になること自体が恥であって、それ以上恥をかかないために身の処し方を考えるべきである、その時、子供も自らの責任で何らかのケリをつけなければならない。

 

そんな考えは未だになくなっていないのではないかと思います。

 

 

 

蛇足

蛭子については、やはり子殺しだろうと思います。

 

河に流すということは遺棄であり、間接的な子殺しです。

 

不具であっても神であるだけ優れているとか、エビスさまとして帰ってきたというのはちょっと都合が良い見方かな?と思います。

 

それを言ってしまえば、捨て子(ここでいう子というのは親と子という続柄のことではなくて幼い子どもの意味だから)と表現するのも少しおかしいですしね。

 

 

みなさんはどうおもいますか?

 

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