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『グッド・ウィル・ハンティング』ー分析という暴力と、ジブリとこじつけた考察ー

 

『グッド・ウィル・ハンティング』を見ました。

 

孤児で高校・大学にも通っていない、大学構内で清掃員の仕事をしている青年ウィルが、教授が学生に出した超難問の宿題を次々に解いていくことから始まる物語。

 

記憶力と数学の能力に優れていたが、不幸な境遇のために高等教育を受けられず、精神的な不安定さからか暴行、窃盗を繰り返していたウィルは、再び騒動を起こして刑務所行きになるところを、問題を出していた数学教授に救われます。

 

教授のチームに入り、数学の研究を手伝いつつ、精神科医のカウンセリングを受けることが条件でしたが、精神科医の著書を読んで予習しては逆に精神科医を分析し始め、何人ものカウンセラーから見放されます。

 

数学教授は、友人である精神科医で心理学教授に頼み込み、カウンセラー役を引き受けてもらうことから、ウィルが少しずつ変わり始めます。

 

最初のカウンセリング時、ウィルは以前と同じようにカウンセラーを逆に分析し始めます。

 

カウンセラーの部屋にある本やカウンセラーが描いた絵を見ながら、彼がこれまでどのように生きてきたか、その生きる姿勢はどんなものか、ウィルは言い淀むことなく分析してみせ、同時に彼を扱き下ろします。

 

カウンセラーは最初、おとなしく聞いていますが、亡くなった妻に関して分析し始めると、ウィルの首を鷲掴みにして警告します。

 

このカウンセラーもウィルを担当することを断るかと思いきや、カウンセラーは来週も彼を連れてくるように友人の数学教授に言い渡します。

 

次のカウンセリングの時、公園かどこかのベンチに座りながら、カウンセラーはウィルにこう言います。

 

「君は子供」だと。

 

ウィルは数学だけでなく心理学、哲学、歴史など広い知識を持ち、美術に関しても、例えばミケランジェロに関しても様々なことを知っているだろうし、絵や彫刻を評論することはできるだろう。

 

しかし、実際にローマへ行ったことがないウィルにはシスティーナ礼拝堂の匂いはわからないし、評することもできないだろう、とカウンセラーは言うのです。

 

知識に閉じ籠ることなく、自ら経験せよ、とカウンセラーはウィルに迫ります。

 

 

 

結果的に彼は自分を見つめなおし、新たな人生を歩むことになるという、わかりやすい話(陳腐だという意味ではなく、安心してみることができる優等生的な話)なのですが、私は少しカウンセラーとウィルのやり取りが気になりました。

 

ウィルは、カウンセラーが読んだ本と描いた絵で、彼の生き方や人生を辛辣に評価してみせます。

 

カウンセラーはそれを「私の人生をズタズタにした」と(たしか)言っていたと思います。

 

しかし、そんなカウンセラーもウィルに対して、経験の無さと人生を変えられる才能を持ちながら、新たなステップを躊躇する様を、無慈悲に分析し、結局は彼をやり込めるのです。

 

そのくらいしないと彼が自分のことを正直に話し始めないと判断したからでしょうが、結局、二人は精神分析という形で、お互いに相手に対して言葉の暴力で傷つけ、優位に立とうとしあっただけのように感じました。

 

私は以前から感じていることがあります。

 

精神科を受診したり、カウンセリングを受けた場合、患者・クライアントが話す悩みだけでなく、言動から明らかになるその人の性格傾向についても、当然、守秘義務になるはずです。

 

しかし、公人であったり犯罪者であったりといった場合に限定されていることがほとんどではありますが、精神科医や心理学者が対象となる人の了解なく勝手にその人を分析し、それをメディアに公表したりしていることが良くあります。

 

時にはちょっとしたスキャンダルというだけであるのに、分析される芸能人もいます。

 

精神科医やカウンセラーは、精神分析による人格評価を安易に行い、それを世の中に吹聴することが、ある種の暴力であることをもう少し認識すべきだと思います。

 

 

そんなことを常々思っていたので、映画を見ていて何だか映画のテーマとは別のところが気になってしまいました。

 

映画はとても良い話です。

 

カウンセラーも数学教授との間にも、カウンセラーと亡くなった妻との間にも、何か簡単には言い表せない過去があるようですが、それをはっきりと表現しないところが上手いな、と思いました。

 

ウィルとのカウンセリングの中で話す出会いのエピソードや、数学教授との口論のシーンからそこはかとなく片鱗がかいま見えるのです。

 

ウィルの過去に何があったのかさえ、断片的にしか表現されていません。

 

プライドが高く傲慢だとカウンセラーから評される数学教授が、ウィルの書いたレポートの中の数式の証明ができないことを素直に認めたり、ウィルが火を付けたレポートを慌てて消す姿をウィルの目の前で見せてみたりする姿も印象的でした。

 

彼も数学の前では正直であることが示されるのです。

 

人は完璧では無いし、常に良い人間でも常に悪い人間でも無いことが小さなエピソードから見えてきます。

 

ウィルと友人達のエピソードも、小ネタのように挿入されますが、決して必要ないシーンでは無いんだなと感じました。

 

そのあたりのうまさを感じた時、ジブリの『もののけ姫』と『ゲド戦記』を思い出しました。

 

もののけ姫』も主人公の住んでいる世界やたたら場の村の置かれた立場や、組織、部隊についてもほとんど説明がありませんでした。

 

地走りなんてパンフレットを見ないとわかりませんよね?

 

何もわからない状態で多くの説明が無いのには多分、理由があるのでしょう。

 

つまり、主人公も社会やもっと大きく言えば"この世"がなんであるのか、あるいは祟りや祟り神、山犬とは何なのか、エボシ御前たちタタラ場の人間の思惑とは何なのかなどわからずに、その世の中に投げ出されていることを表現しているのではないでしょうか?

 

それと比べると『ゲド戦記』が面白くなかった原因は、あの説明的な、箇条書き的なエピソードの羅列にあったのではないでしょうか?

 

NHKの番組だったと思いますが、父親の宮崎駿氏がゲド戦記の試写を途中で切り上げて、何か言っていましたが、あれは本当はどういう意味だったのか気になります。

 

かく言う私の見方もそうとう浅いものであり、見当違いであることも大いに有り得ることですが。

 

『グッド・ウィル・ハンティング』を見た、他の人の感想をネットで探して読んでみたい気分になりました。

 

マッド・デイモンやベン・アフレックと言った今や大スターと言えるイケメン俳優の若い頃の演技が見られますし、亡くなったロビン・ウィリアムズがカウンセラー役なので、俳優目当てでも楽しめますよ。

 

 この本と元になったNHKのテレビで知ったラマヌジャンの名前が出てくるところも良かったです。

 

本当に名前だけなのですが。