原始仏教と日本に伝来した仏教
先程、以前書いた記事のうち、読んだ本について書いた記事のリンクに修正を加えて、再度投稿しました。
以前は、不調ながらも随分本を読んでいたんだなと実感しました。
最近まで本を読むのがつらいほど頭の具合が悪かったので、年単位で読破できた本が一冊もない状態でした。 ようやく読み終わった本が一冊あります。
中村元はインド哲学の学者であり、仏教学者で東大名誉教授だった方です。
中村氏はNHKのラジオやテレビで度々、仏教について語っており、近年も生前に彼が出演した番組が再編中されてNHK「こころの時代」で放送されていました。
中村氏は仏教の中でも特に原始仏教を研究し、現在、日本で一般的に考えられている仏教はゴータマ・ブッダの死後、中東、中国、韓国を経て日本へ伝来する間に随分と変わってしまったものであることを明らかにしました。
この本も「こころの時代」で収録した内容を元に書かれたものです。
最近、聞いているこの動画も中村元氏のラジオのお話を録音したものでしょう。
ブッダの生涯 原始仏教というのは現在残っている文献のうち古いものに書かれている、最も初期の仏教に近いであろう教え、思想を言うそうです。
そういった文献はパーリ語という現在では研究以外ではほぼ使われることの無い言語で書かれているそうです。
ブッダは紀元前5世紀ごろ、サーキヤ族(釈迦族)の王族の子として現在のネパールで生まれました。
幼い頃にこの世の理不尽、生まれながらにして異なる身分や命の儚さについて疑問を持ちました。
カースト制はこの頃すでにあったようです。
とはいっても、奴隷や身分制度は同時期のどこの国にもあったでしょうが。
しかし、29歳までは何不自由のない生活をしていたようです。 それでも子供の頃からの人生の疑問についての答えがどうしても知りたくなり、妻子や国も捨てて真理を求めて出家します。
この時代は様々な思想や宗教が生まれた頃のようで、中国で例えれば諸子百家(道家、儒家、墨家、法家などが表れ互いに相手と議論していたころ)の時代のようなものだったそうです。
その時代、特にブッダが仏教を説き、広め始めたころの代表的な思想家の一人にジャイナ教の教祖マハーヴィーラがいます。
そんな中、出家した彼は様々な修行者・思想家に弟子入りし、真理を得るための修行をします。
その多くは苦行であったようです。
結局、その結果、真理が得られなかったために彼は自ら教わっていた修行をやめて、基本的には清浄行というの身を清める修行のうちの断食を基本としたものを始めたようです。
そして、悟りを開いた後は禅定という瞑想の一種を重視しました。
極端な苦行は否定しつつも、ある程度つらい修行は必要であるとブッダは考えていたのだそうです。
しかしながら、よく言われているような悟ったことでこの世の全てから開放されるようなことはなく、一生自分を戒め、穏やかながらも修行をし続けた生涯だったと本には書かれています。
また、仏教という、当時はそのような名もついていない思想を説きつつも、当時のインドにすでにあった思想や慣習と無関係であったわけではなかったそうです。
バラモンというカースト制の階級のバラモンについて、生まれや育ちではなく、何者にも執着しない者をバラモンというと説き、その解釈に自らの思想を反映させます。
また、生贄を捧げる、木片を燃やす(護摩行のようなものでしょう)など当時のバラモン教が行っていた呪術的なものでは、身は清められないとも言っているそうです。
しかし、業や輪廻、そしてそこから抜け出ることを意味する解脱はもともとインド哲学にある思想であって、バラモン教にもあるそうですが、ブッダはそれについて否定せず、その解脱の方法に新しい解釈を加えたのだと言います。
ブッダは教えは説きましたが、他の思想家がしているような論争には加わらなかったそうです。
自分の理論にこだわり相手をやり込めようとする行為が執着だからだとか。
面白いのは、骨と皮になるほど痩せこけるまで断食の修行をしたブッダは、同時に自分の身を大切にするようにと説いていることです。
真理に到達せずに死んでしまったり、修行できなくなっては意味がありませんから。 一般に考えられている解脱という思想は原始仏教にはなかったことがわかります。
さらに面白いことに、修行中、悪魔が心に語りかけてくるのですが、その悪魔もその身を大切にせよ、と囁いてくるのです。
悪魔の方はそのような断食はやめてバラモン教に従って護摩行をして身を清めるということにしたらどうか?と言うのです。
こういった悪魔には、インドに古くから伝わる「リグ・ヴェーダ」や叙事詩にも登場する名前が使われ、悟りを開いた後も度々現れます。
随分と日本人が知っている仏教とは違うと感じると思います。
他にも様々なエピソードや、原始仏教から既にある仏教の中心的思想など、この本の内容は非常に濃いものです。
じっくり時間をかけて、普通に問題なく本が読める方でも何度も読み返す必要がある本だと思います。
文章自体はとても平易なので、初めて仏教思想に触れる方でも読むことができます。
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